本多忠勝の生涯に迫る!戦国最強候補の猛将は知略にも優れていた?

戦国最強の武将をめぐる議論は、しばしば歴史ファンを興奮させるものです。

そこで挙げられる人物は数多く存在しますが、その筆頭ともいえる猛将が今回紹介する「本多忠勝(ほんだただかつ)」ではないでしょうか。

 

彼は数多くの武勇伝を轟かせる英雄としてよく知られていますが、その一方で「ただの戦馬鹿」ではなかったという事実も浮かび上がってきています。

そこで、この記事では彼の生涯を史料や文献に基づいて紹介していきます。

肖像・本多忠勝

 

若くから頭角を現し、戦で活躍を見せた

忠勝は、天文17年(1548年)徳川家に代々仕えていた家臣の本多家に生まれました。

父が早くに亡くなってしまったため、彼はもっぱら叔父の本多忠真という人物に教育されることとなります。

 

彼が初陣を迎えたのは13歳の頃で、世に名高い桶狭間の戦いに関わる兵糧の搬入に参加。

さらに、翌年には長沢城という城攻めに従事し、敵陣深くまで攻め入って敵将の首を取ったと伝わっています。

 

このように、今で言えば中学生のような年齢から才覚の片鱗を見せつけていた忠勝。

しかし、彼だけではなく徳川家全体を危機に陥れる出来事が永禄6年(1563年)に発生してしまいます。

 

この年に徳川が領有していた三河国の国内で、領主への不満から民衆が立ち上がって一向一揆を起こしました。

一揆衆は「宗教」を背景に結束していたので、当然ながら彼らと戦うことは「仏門」に背くことを意味したのです。

そのため、徳川の家臣は「主君」か「宗教」のどちらに加担するかを迫られてしまいました。

 

その結果、家臣の中には家康に背いて一揆衆に与する勢力が現れ、三河国内はさながら内乱のような様相を呈していました。

忠勝が生まれた本多家も一揆衆の側についてしまいましたが、彼本人はあくまで家康への忠誠を誓い、徳川方の一員として活躍を見せました。

一揆衆との戦いでの働きが評価されたのか、永禄9年(1566年)ごろに行なわれた徳川家の軍制改革において忠勝は「旗本先手役」という重要な役職に任じられ、家康に認められたのです。

 

戦だけでなく外交でも存在感を発揮していた

徳川の重臣に位置付けられてからも、戦においては変わらぬ活躍を見せました。

元亀3年(1572年)には上洛を試みた武田信玄を徳川領内で迎え撃つことを強固に主張した家康に対し、忠勝は敵情を正確に分析しあくまで退却を主張。

家康にもこの進言が受け入れられ、彼は言葉通り退却軍の殿を務めて困難な撤退戦を成功に導きました。

 

その後も家康が参戦した主要な戦ではことごとく活躍を見せ、彼の名は家内だけでなく諸国へと広がっていきました。

また、彼の強さは彼が身に着けていた武具や防具の知名度も上昇させ、名槍「蜻蛉切」などは様々な創作作品において頻繁に登場しています。

 

しかし、忠勝が優れていたのは、なにも戦場での武勇だけにとどまりませんでした。

彼にまつわる逸話などを見ていくと、その「知略」をたたえるものも少なからず存在しているのです。

 

例えば、天正18年(1590年)の小田原攻めに際しては、小田原城に乗り込んで大暴れするのではなく、外交手段を通じて北条方への降伏勧告を引き受けました。

この際は大変首尾よく業務をこなしたと伝わっており、彼の働きぶりを称した秀吉から「知略に優れた将である」と評されたと伝わっています。

 

さらに、後年は家康の重臣として政治にも携わっており、諸国の大名と家康の間に入って折衝を担当する「取次」という役割を担っていたようです。

この事実は、忠勝が徳川家を代表する家臣と見なされていたことを象徴しており、家康としても彼の存在に鼻高々だったのかもしれませんね。

 

江戸幕府誕生以後は一線から退いている

慶長5年(1600年)関ケ原の戦いでも指揮官として活躍を見せ、戦後は伊勢国の桑名に10万石の土地を与えられており、初代桑名藩主として領内の整備を行いました。

彼の知略は、藩の経営にも生かされていたのかもしれません。

 

しかし、家康の家臣筆頭と思われていた忠勝も、慶長9年(1604年)ごろから第一線を退いていたようです。

この頃には忠勝が体調を崩し始めたために事実上の引退状態になったとも、家康によって家中の「武断派」が冷遇されたためともされていますが、詳しいところは分かっていません。

 

もっとも、理由はともかくとして、健康上の不安を抱えていたことは事実でした。

そのため家康に隠居の申し出をしていたようですが、家康の手によって一度は慰留されています。

それでも体調が回復しなかった忠勝は、やがて眼病も患うようになりました。

 

そして、慶長15年(1610年)には63歳でその生涯を閉じています。

なお、彼の死にまつわる有名な逸話として「戦場で傷一つ負わなかったにも関わらず工芸で手に傷を負ってしまい、自分自身の死期を悟った」というものがあります。

逸話が事実かどうかは分かりませんが、晩年の彼は相当に弱ってしまっていたのかもしれませんね。

 

【出典】
煎本増夫『徳川家康家臣団の事典』東京堂出版、2015年。
菊地浩之『徳川家臣団の謎』KADOKAWA、2016年。
柴裕之『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』岩田書院、2014年。

(筆者・とーじん)

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