本多正信の生涯に迫る!徳川の頭脳として活躍した知将

本多正信という人物は、知略で家康に仕えた頭脳派の武将として知られています。

ちょうど同じ本多姓の本多忠勝とは対象的な人物として語られることも多いですね。

 

しかし、忠勝が実際は知将としての一面を兼ね備えていたように、正信にもいわゆる「頭脳派」の武将らしからぬ経歴が存在することをご存知でしょうか。

この記事では、彼の生涯を史料や文献に基づいて解説していきます。

本多正信

 

鷹匠の地位から成り上がり、戦に従事するように

天文17年(1538年)、正信は徳川家に鷹匠(鷹を飼い、貴族の嗜みであった鷹狩りを担当する役職)として仕えていた本多俊正という人物の息子として生まれました。

この役職からも分かるように、彼は決して高い身分の出身とは言えません。

そのため、生後間もなくの時期は父と同様に鷹匠の役職に従事していたようですが、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いに際しては武将として出陣した形跡が残されており、この頃には兵士として扱われていたようです。

 

しかし、戦いに際して足を負傷してしまった正信は、以後身体が不自由になってしまったとも伝わります。

それでも、少しずつ家康の信頼を獲得して出世の道を歩み始めていたかに思えた正信。

ところが、彼の生涯は三河国内で勃発した一向一揆によって大きく狂わされることになってしまうのです。

 

正信は深く仏教を信仰していたようで、仏の名を盾に反乱を起こす一揆衆の味方に付くと、主君である家康に弓を引いてしまいました。

ただし、これは正信の忠誠心が劣っていたわけではなく、中世における絶対的な仏教信仰が根底にあります。

そのため、主君への忠誠心が篤いことでも知られている徳川家臣団の中からも、正信のように一揆衆に与する人物は数多く出てしまいました。

こうしてさながらお家騒動のような様相を呈してしまった一揆でしたが、最終的には徳川家側が一揆を平定し事は収まりました。

 

しかし、当然ながら主君に反旗を翻した正信が何事もなかったかのように家中で振舞うことは出来なかったのでしょう。

情状酌量の余地があったため処刑されることはなかったようですが、責任を感じた正信は徳川家を出奔してしまうのです。

 

数年諸国を放浪した後に許された正信は、家中の折衝に長けていた

やむなく諸国を放浪することになった正信ですが、放浪中の活動については詳しいことが分かっていません。

一説によれば一向宗のネットワークに頼って彼らの拠点であった加賀に移り住み、本願寺派の一員として活躍したとも伝わっています。

 

しかし、正信はいつしか家康に罪を許され、徳川家に帰参したようです。

この時期や詳細については詳しいことが分かっていないので具体的な描写はできませんが、彼の帰参をサポートしたのが同じく家臣の大久保忠世であるという言い伝えもあります。

 

家臣の座に返り咲いた正信は軍略家・政治家として家康の信任を得たようで、平時は武田家を滅ぼしたことで空白になった旧武田領の統治を任されていたようです。

そして、天正14年(1586年)には従五位下・佐渡守といった官位を与えられ、ここで正式に家康の側近として認められました。

 

彼の犯した罪には情状酌量の余地があったという事実もありますが、それ以上に彼の持っていた能力面が評価されて出世を果たしたのでしょう。

正信は特に「人間関係の取りなし」が大変上手だったとされており、関ヶ原の戦いに際しては戦後処理のスムーズさを高く評価されました。

こうした彼の能力は平時の江戸幕府において重宝されるようになり、やがて家康の絶対的ともいえる信任を獲得していくようになるのです。

 

江戸幕府では老中として権力の座についた

戦国時代に活躍したものの江戸時代に冷遇される武将は枚挙に暇がありませんが、正信の場合はむしろ幕府が開かれてからが本番でした。

家康の将軍就任をサポートするために朝廷との交渉を引き受け、さらにかつて親しくしていた本願寺の勢力を削ぐために内部分裂を誘発したとも伝わります。

 

こうした知略を評価され、正信は家康が隠居してからも幕府内で力を持ち続けました。

そして、慶長17年(1612年)には将軍に次ぐ平時の最高権力者である老中に任命され、二代将軍秀忠のブレーンとして政権運営に尽力しました。

 

彼の手にしていた権力はかなりのものがあったようで、実際この時期にはかつての同僚であった大久保家を失脚に追い込んだという説も存在します。

これは具体的な史料がないため史実と断定することはできませんが、本願寺への仕打ちを見るに「正信ならやりかねない」と思えないこともありません。

 

このように、すでに老齢に差し掛かりながらも精力的な活動を見せていた正信。

しかし、元和2年(1616年)に家康が亡くなると、思うところがあったのか息子に家督を譲り隠居してしまいます。

そして、隠居後すぐに正信は急死してしまうのです。

まるでかつての罪を晴らすように家康に付き従って天に帰っていった、と思うのは私だけでしょうか。

 

【出典】
煎本増夫『徳川家康家臣団の事典』東京堂出版、2015年。
菊地浩之『徳川家臣団の謎』KADOKAWA、2016年。
柴裕之『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』岩田書院、2014年。

(筆者・とーじん)

Twitterで最新記事をチェックしよう!