童話「泣いた赤鬼」(浜田広介)をご存じですか。
人間と仲良くなりたい赤鬼のために、青鬼は悪役となったのです。
青鬼はあえて泥をかぶる役を買って出て、赤鬼の人気を確立させたのです。
この青鬼のような存在こそ、幕末の京都を中心に尊王攘夷派・倒幕派から恐れられた新選組でナンバー2として活躍した土方歳三(ひじかたとしぞう)です。
歳三は厳しい隊規の遵守をはじめ組織の引き締め役として活動したため、鬼の副長と呼ばれ、怖れられました。

その歳三が、まさしく戦場の鬼となったのが戊辰戦争の宮古湾海戦でした。
今日は、新選組鬼の副長 土方歳三が関わった宮古湾海戦について取り上げます。
有名な新選組の活躍を簡単に
新選組での土方歳三の活躍については、ご存じの方も多いので、簡単な紹介に留めます。
歳三は、多摩の豪農である土方家に生まれます。
幼少より「バラガキ」(いばらのように接すると痛い思いをする悪童)と言われていました。
土方家は石田散薬という薬を商い、歳三も行商で近隣に売りに行っていたと言われています。
こうした旅の際に護身のために剣を学ぶ人が多い時代でした。
歳三も剣術修行を行い、各地の道場に顔を出していましたが、やがて多摩で学ぶ人が多い天然理心流を教える試衛館に入門します。
ここで生涯の盟友の近藤勇に出会います。
1863(文久3)年、将軍家茂の上洛の際の警護役目的で集められた浪士隊の試衛館の門弟たちと応募し、京都に上りました。
この時、浪士隊が分裂しますが、京都の残った浪士隊の面々が後に新選組として、京都の治安維持を役目として活躍していきます。
新選組は、局長に近藤勇 副長に土方歳三 各隊の隊長を試衛館の主要メンバーなどを据え、組織を作っていきました。
そして、局中法度と呼ばれる隊規を作成し、隊員には遵守を義務付けます。
この局中法度は破れば、「切腹」という非常に厳しいものでした。
歳三は、実質的に法度の運用を行っていたため、この切腹を命じることが多く、隊士からも恐れられていました。
こうして鉄の結束を誇る新選組は、池田屋事件をはじめ尊王攘夷・倒幕派の取り締まりに活躍していきます。
しかし、幕府の威勢が衰え、倒幕派が力を得ると、新選組は倒幕派の憎しみを背負っていくことになります。
1868(慶応4)の鳥羽伏見の戦いで敗れて、歳三ら新選組は幕府軍とともに江戸に戻ります。
その後、甲州の戦いで新政府軍に敗れて後、近藤勇が新政府軍に投降し、処刑されました。
それ以来、歳三は新選組を率いて、各地を転戦します。
しかし、隊員たちは別の場所で戦ったり、会津に残ったりとして、徐々にその数を減らしていきました。
函館の地で戦場の鬼となった歳三
そして、歳三ら新選組の面々らは、蝦夷に向かう榎本武揚らに合流し、函館に向かいました。
その蝦夷では、松前藩を追い出して五稜郭を占領し、新政府軍との対決姿勢を鮮明にする武揚の許、歳三は陸軍奉行並という陸軍のナンバー2の地位に就きました。
海軍力を背景に新政府軍の対抗する幕府軍でしたが、新政府側にアメリカから最新鋭の軍艦が到着しました。
ストーンウォール号(通称・甲鉄艦)と呼ばれる軍艦です。
一方で、幕府軍は蝦夷に向かう途中に軍艦を2隻失っていました。
そこで、榎本らは「アボルダージュ」という奇策を実行します。
これは、敵艦に接近するまで第3国の旗を掲げ、攻撃の直前に旗を自軍の旗に変えることができれば攻撃を開始してもよいという奇襲戦法です。
この戦法は、当時の国際法である「万国公法」で認められた戦法でした。
しかし、実行した例はありませんでした。
この作戦の実質的な指揮官として臨んだのが、歳三でした。
当初は軍艦3隻で実行する予定でしたが、1隻がはぐれ、もう1隻もエンジン不調に陥ります。
そのため、土方らが乗る軍艦1隻でこの世界の海戦史上初の「アボルダージュ」作戦を実行するのです。
決行!アボルダージュ
歳三らの軍艦はアメリカ国旗を翳しながら、新政府軍の艦隊が待機する宮古湾に侵入します。
外国船が避難や補給で日本の湾内に入ってくることはあったことなので、新政府軍は特に警戒をしていませんでした。
それに乗じて、歳三らの乗った軍艦は、甲鉄艦に向けて進んでいきます。
そして、甲鉄艦に近づくとともに、アメリカ国旗を下げ、榎本艦隊の旗を掲げて、攻撃を開始するのです。
混乱する新政府軍を眼前で、歳三らは甲鉄艦に接触させ、腕に覚えのある新選組隊士や操船技術のある者を率いて甲鉄艦に飛び移りました。

逃げまどう兵士を追い、斬りかかってくる敵兵は斬捨て、甲鉄艦の操舵室に向かいます。
甲鉄艦の甲板上は阿鼻叫喚の地獄と化しました。
しかし、歳三は、同様な修羅場をたびたび経験し、お手の物でした。
甲鉄艦奪取もなるかと思われた時、歳三らにとって誤算が生じました。
この甲鉄艦には、一基のガトリング機関砲が積まれていたのです。
ガトリング機関砲は、長岡藩の河井継之助が仕入れ、北越戦争で新政府軍に大打撃を与えました。
そのガトリング機関砲が、今度は歳三らに向けて火を噴いたのです。
数々の死地を超えた手練れの戦士も、このガトリング機関砲の前に朱に染まって倒れていきます。
歳三もこの攻撃の前には、「撤退止む無し」と判断し、甲鉄艦から退艦し、撤退命令を下します。
この時、歳三らの戦いを見た下士官の中に、後に日本海海戦の英雄となる薩摩の東郷平八郎もいたのです。
鬼の副長 蝦夷に散る
1869(明治2)年5月11日、新政府軍の猛攻の前に榎本軍らは苦戦を強いられていました。
そして、五稜郭を防備に重要な弁天台場が陥落の危機に見舞われます。
歳三は督戦のため、一隊を率いて弁天台場に向かいます。
そして、榎本軍は一時、新政府軍を押し返すまでになりました。
しかし、味方から見えやすくするため馬上で指揮を執る歳三は、一方で敵弾の的になる危険と隣り合わせだったのです。
馬から降りるように話す周りの声を退けて、大声で督戦し、時には斬りこんでいく歳三に敵弾が命中し、絶命してしまいます。
この歳三の死を契機に弁天台場は陥落してしまうのです。
「身はたとえ 蝦夷が島辺に朽ちぬとも 魂(たま)は東の 君や守らん」
これが歳三の辞世の句と伝わっています。

徳川に仕える武士として、当時の武士以上に武士らしくあらねばならぬと新選組を鉄の結束でまとめた歳三。
鬼とも、冷血漢ともののしられ恐れられた歳三に対し、近藤勇は情に厚く人気があったと言われています。
全ては徳川のために、近藤のために泥をかぶる役を担った歳三こそ、「泣いた赤鬼」の青鬼のような存在だったのではないでしょうか。
蛇足ですが、2019年の今年は、歳三没後150年にあたります。
(筆者・黒武者 因幡)