吉田松陰や坂本龍馬など、幕末には藩という枠組みを超えて活躍したいと思った人物は脱藩をしました。
藩という枠組みに我慢できなくなった者は、脱藩をしたのです。
しかし、この幕末でも脱藩は重罪でした。
もし、捕まったら、本人は切腹、家は取り潰されても何の不思議もなかったのです。
こうした危険を冒してまで脱藩をするのは、下級武士と相場は決まっていました。
しかし、歴史上、藩主が脱藩した例もあったのです。
なぜ、お殿様が脱藩をすることになったのか。
そこには、深い事情がありました。
今日は、脱藩したお殿様 林忠崇(はやしただたか)についてお伝えしていきましょう。
旗本から取り立てられて大名に
林家は三河国いらいの譜代の臣で、もともと3000石の知行地をもつ旗本でした。
林家は、祖先の徳川家に対する功労から、毎年正月元旦には、他の大名や旗本を差し置き、将軍家から一番杯を賜る名誉をもつ家でした。
そして、11代将軍・徳川家斉の時代に、林忠英が若年寄に取り立てられ、1万石を領する大名になったのです。
その後、藩の中心地を上総請西においたことから、林家の藩は請西藩と呼ばれることになりました。
こうした成り立ちから他の幕臣や大名家と比べても、将軍家第一に忠義を尽くすことを当然に、誇りをもっている家柄だったのです。
そして、忠崇は、1867(慶応3)年に家督を継ぎ、請西藩3代目藩主に就任しました。
幕閣の間でも、忠崇の文武に優れた才能は知られていて、将来の幕府の中枢を担う存在として認識されていました。
そして、忠崇自身もその自負を持っていました。
しかし、激動と混迷を極める明治維新が、新藩主・忠崇を翻弄していくことになるのです。

戊辰戦争 敗走する幕府軍
1868(慶応4)年1月、鳥羽伏見の戦いが勃発しました。
この時、幕府軍は新政府軍の前に敗れ、徳川慶喜は家臣を見捨てて、江戸に逃げ帰ってきました。
その後、幕府軍は抵抗らしい抵抗もせず、3月14日に江戸城無血開城が決定します。

しかし、幕府には無傷の近代化した陸軍と海軍がいました。
そんな幕府陸軍の中でも勇猛な戦いぶりで知られた遊撃隊の面々が、4月28日、請西藩の忠崇の許にやってきました。
人見勝太郎と伊庭八郎らは、忠崇への面会を求めます。
伊庭八郎らは、忠崇に「ともに徳川家の存続のため、戦おう」と申し出ます。
幕府内でも将軍家への忠義心篤い林家に期待していました。

若き藩主・忠崇の決断
無論、忠崇は八郎らの想いもわかります。
心では、将軍家のために、徳川家の名誉のために新政府軍と戦いべきだという想いでした。
一方で、忠崇は藩主です。
請西藩の藩士とその家族、領民の命を預かっています。
軽率な判断をすれば、藩士・領民が新政府軍の前に争いに巻き込まれてしまいます。
わずか1万石足らずの力では、たとえ戦っても蟷螂の斧であることもわかっていました。
そこで、忠崇の下した決断は……、藩主自らが脱藩して、藩士・領民が争いに巻き込まれることを避けたのです。
忠崇は、藩主から一介の浪人になり、幕府軍の一員として戦うことを決断しました。
忠崇に従う藩士も脱藩し、59人が従いました。
領民たちは脱藩する忠崇の武運を祈って、土下座して見送ったとのことです。
忠崇は、箱根で新政府軍と戦うも敗れ、その後、負傷した伊庭八郎を榎本武揚の艦隊に預け、自らは奥羽越列藩同盟に支援のため、東北に向かいました。
しかし、奥羽越列藩同盟側も仙台藩・米沢藩が降伏すると、忠崇の周囲には戦う仲間がいなくなりました。
さらに、徳川家存続が確実に図られるという話を忠崇は耳にします。
そこで、忠崇の戦う理由はなくなりました。
忠崇は、ここで降伏を決断し、新政府軍に投降しました。
この時、忠崇21歳。死を覚悟しての投降でした。
この時読んだ辞世の句が残っています。
『真心の あるかなきかは ほふりだす 腹の血潮の 色にこそ知れ』
苦難の明治
投降した忠崇でしたが、死一等は減じられました。
しかし、その後の忠崇の人生は苦難の連続でした。
戊辰戦争の時に脱藩していたため、忠崇は藩主ではなく浪人として扱われました。
そのため、他の大名家は最終的に全て華族に列せられる中、忠崇だけはそこから漏れました。
そのため、忠崇は一時、開拓農民として開墾に尽くしたり、東京都の下級役人をしたり、函館で商家の番頭をします。
この商家は経営が行き詰まり、忠崇自身も破産してしまいます。
普通の士族よりも、困窮した暮らしを余儀なくされました。
その間も、請西藩の藩士や領民たちは忠崇を華族にするように嘆願を続けました。
この嘆願が実を結んだのは、1893(明治26)年でした。忠崇は林家への復帰が認められ、華族の一員として認められました。
復帰後の忠崇は、戊辰戦争に関するインタビューなどに度々取り上げられ、人気を博したということです。
そして、幕末の藩主の中で最も苦労したであろう忠崇は、戊辰戦争の時、藩主だった他の華族の人たちと比べて誰よりも長生きし、1941(昭和16)年に94歳で大往生を遂げています。
晩年のインタビューで忠崇は「辞世の句などは作りますか」という質問を受けて、こう答えています。
「自分は、21歳の時に死ぬ覚悟で辞世の句を作っている、それが、辞世の句だ」
そんな忠崇は、晩年このような句も残しています。
琴となり、下駄となるのも 桐の運
同じ桐でも、琴となって座敷で愛でられるか、下駄となって地べたをはいずるか。
それは全て桐の材質・能力でなくて運にかかっている。
琴と下駄と、双方の人生を歩んだ忠崇だからこそ詠める句だと言えるでしょう。
他の殿様と比べても誰よりも苦労し、誰よりもダイナミックな人生を送った最後の殿様・林忠崇。
しかし、忠崇の胸には、後悔の文字はない人生だったのではないでしょうか。
(筆者・黒武者 因幡)