藤原不比等は、父・鎌足を超えるフィクサーだった!

藤原不比等(ふじわら の ふひと)と言えば、日本史の教科書において、「藤原鎌足の子」「大宝律令の制定に関与」位の記述で触れられている程度で、父鎌足に比べて若干影が薄い印象がある。

しかし、歴史の裏側を覗いて見ると、意外なところで不比等は登場する。

史料から垣間見る不比等とはどんな人物だったのであろうか。

藤原不比等(画・菊池容斎 明治時代)

不比等皇胤説

研究者の間ではあまり受け入れられていないが、不比等が天智天皇の落胤であるとの記述がある史料は複数存在する。

例えば、『公卿補任』には「実は天智天皇の皇子と云々、内大臣大職冠鎌足の二男一名史、母は車持国子君の女、与志古娘也、車持夫人」との記述が見られる。

同様の記述が『大鏡』や『尊卑分脈』等にも見られるのは興味深い。

 

また、天智天皇の父が百済人であるという驚きの説があり、不比等を養育したという田辺史大隅も百済人であったから、不比等が天智の子だとするとつじつまが合うとは言えそうである。

さらに、持統天皇の代になってから破格の出世を遂げたということを考えると、天武より天智の血が濃い持統天皇にとって、不比等は愛着の深い人物であった可能性は高いだろう。

 

壬申の乱(じんしんのらん)の衝撃

672年、不比等13歳のとき壬申の乱が起こる。

これは不比等によって衝撃的な出来事であったろう。

天智天皇の後を継いで皇位に就く予定であった大友皇子が、なんと叔父である大海人皇子に討たれてしまったのである。

 

大友皇子方の近江朝に近い立場であった藤原氏は、これを境に凋落してしまう。

天武朝において後ろ楯を持たない不比等は、大舎人の登用制度によって下級役人からそのキャリアをスタートすることとなる。

大化の改新における最大の功労者鎌足を父に持つ不比等にとって、これはかなりの屈辱であったに違いない。

しかし、この不遇さが「フィクサー」不比等を育てたであろうことは皮肉というしかない。

 

下級役人からのしあがる

不比等の役職は法律を扱う刑部省の判事であったとされる。

後に、『大宝律令』の編纂に携わることになる不比等であるが、その下地はこの時期に培われたと言ってよいであろう。

 

まずは法律家としての頭角を現した不比等であったが、持統天皇の代になると政治家としても重用されるようになる。

法律家としては、堅実な実務家として知られていた不比等であるが、政治という舞台においては、また別の顔を持ち合わせていたようである。

 

それは、権謀術数家としての顔であった。

政治家としての不比等は、藤原氏の権力基盤を磐石にすべく、かなりの辣腕を振るったようである。

自らの妻・犬養三千代が乳母をつとめた草壁皇子の子・軽皇子(かるのみこ)を擁立する。

 

これは、賀茂比売(かものひめ)との間に生まれた娘の宮子を、三千代のつてで軽皇子に嫁がせようという目論見であった。

念願叶って、宮子は軽皇子がわずか14歳で即位し文武天皇となった直後に、その夫人となる。

これにより、藤原朝臣姓の使用が不比等の子孫に限定されることとなったのである。

 

そして、701年宮子は待望の男子である首皇子(おびとのみこ)を産む。

遂に不比等は皇子の外祖父となったのである。

不比等の首皇子に対する思い入れはひとかたならぬものがあったようで、いつも傍に置き、自ら帝王学を伝授していたという。

 

このことから、不比等の狙いは、いずれ首皇子を皇位につけ天皇の外祖父となることであったと思われる。

全てが順調に進むかと思われたその時、まさかの事態が起こる。

 

文武天皇の夭折

707年、文武天皇が夭折する。

さすがの不比等もこれは想定外であったと思われる。

何せ、首皇子はまだ6歳だったから文武の後継者としては幼すぎる。

そこで、不比等は天智天皇が皇位継承のガイドラインとしてまとめたという『不改常典(ふかいのじょうてん)』を持ち出し、「皇位継承は嫡子相続が決まりであると天智天皇が定めた。」と周囲を圧倒したのである。

 

まさに、剛腕政治家不比等の面目躍如といってよい画策であった。

これで、長じてからの首皇子即位を確定させた不比等は、中継ぎとして元明天皇を擁立する。

これは完全に不比等の傀儡であったとされる。

 

この後も、三千代夫人との間に生まれた光明子を首皇子に嫁がせるなど、天皇家との外戚関係を密なものにしていく。

不比等は養老律令の編纂作業のさなかの720年に、62歳でこの世を去る。

その4年後、首皇子は聖武天皇として即位。

不比等の悲願はついに達成されたのである。

 

あとがき

歴史を紐解いていくと、誰しも気がつくことがある。

それは、二代目は初代と比べて、「地味」で「ぱっとしない」ことが多いということである。

例としては、鎌倉幕府二代将軍源頼家や室町幕府二代将軍足利義詮(よしあきら)など、枚挙にいとまがないほどである。

 

そんな中にあって、藤原不比等の存在は特異と言ってよい存在であろう。

知名度こそあまり高くないが、その業績たるや父鎌足の比ではない。

巧みな策で天皇家の外戚となり、朝廷に深く根を下ろしたことにより平安時代の摂関政治において藤原氏は最大の権勢を誇ることになる。

その基盤を構築したのが藤原不比等であるということは、あまり知られていない。

(筆者・pinon)