クリミアの天使 ナイチンゲール

一度も洗濯されたこともない作業衣を着た医師。

医学的な知識もなく単なる補助作業員に過ぎない看護婦、血や膿が付いていても使いまわされる包帯、そしてベッドもなく何も敷かれずに地べたに横たえられる兵士たち……。

19世紀のヨーロッパでの戦争時の病院の光景です。

こうした不衛生な環境では、助かる命も助かりません。兵器の近代化につれて、負傷兵が多く出るようになり、それに応じて戦病死する兵士の数が激増します。

 

こうした悲惨な状況を大きく変える女性が現れました。その女性の名は、フローレンス・ナイチンゲール

今回は、彼女が起こした奇跡をお伝えいたします。

ナイチンゲール写真

 

恵まれた環境のお嬢様

1820年、ナイチンゲールは生まれました。

ナイチンゲールはイギリス国籍ですが、生まれたのはイタリアのフィレンチェです。

この時、両親は2年間かけた新婚旅行中で、生まれた町の名をとって、フローレンスと名づけられました(フローレンスはフィレンチェの英語読み)。

 

このような裕福な家に生まれたナイチンゲールは、語学や文学、数学、芸術、歴史学、哲学など幅広い分野の教育を施されました。

そして、ナイチンゲールは慈善事業で貧しい人々の暮らしに接して、衝撃を受けました。

この施された教育と慈善事業での体験が、後のナイチンゲールの人生に大きな影響を与えていきました。

 

看護婦は召使

ナイチンゲールは姉が体調を崩した際に看護にあたりました。

その際に、看護婦の働きぶりを見て、看護婦になることを決意します。

しかし、ナイチンゲールが接した看護婦の方が当時は異色な存在でした。

この病院では看護婦に医学的な教育を施していましたが、当時の看護婦は病人の世話役に過ぎず、知識もいらない召使のような仕事と見られていました。

 

そのような時代でしたから、看護婦になりたいというナイチンゲールの希望に家族を含めて周囲は反対します。

しかし、その反対を押し切って、ナイチンゲールはイギリスの病院で看護婦として働き始めます。

そして、婦人病院長となったナイチンゲールは、専門知識をもった看護婦の重要性をイギリス各地で訴えていきました。

 

クリミア戦争勃発

1854年当時、南下するロシアの勢いの前に、トルコは青息吐息状態でした。

このロシアの南下を脅威と感じたイギリス、フランスはトルコに味方し、ロシアと戦うことを決意します。

こうした状況下、クリミア半島で端を発したのがクリミア戦争です。

 

この戦争は大規模な戦いに発展し、両軍は戦死者・戦病死者合わせて20万人にも上る大きな被害を出しています。

クリミア戦争の激戦 セヴァストポリ要塞攻防戦の様子

 

このクリミア戦争の悲惨な現実と負傷兵がろくな手当もされないまま死んでいく状況をイギリスの新聞が伝えました。

その記事でナイチンゲールは心を痛め、自らが戦地に赴いて治療にあたりたいと希望します。

 

その折にナイチンゲールは、戦時大臣の要請を受け、自らが従軍看護婦として戦地に赴く機会を得ることになりました。

ナイチンゲールは、14人の職業看護婦を含む38名の女性を引き連れて、兵営の病院に入ります。

 

不衛生な環境の改善を主張するナイチンゲールたちに対し、軍や病院は、管轄を理由にナイチンゲールらに仕事の場を与えることを拒否したのです。

しかし、ナイチンゲールらは諦めませんでした。

管轄の定まっていないトイレ掃除を引き受けることからナイチンゲールたちは。衛生環境の改善を始めます。

この歓迎されざる雰囲気に苦労するナイチンゲールに、心強い味方が現れました。

イギリスのビクトリア女王です。

 

ビクトリア女王は、ナイチンゲールの報告を直接自分に挙げるように命令を下します。

これは、ナイチンゲールの報告が他人の手を経ることで捻じ曲げられたり、握りつぶされたりしないように配慮したものでした。

ナイチンゲールを支援したビクトリア女王

 

女王の後ろ盾を得たナイチンゲールは、病院の衛生環境の改善を急がせました。

この結果、イギリス兵の1855年2月の負傷兵死亡率が42%まであったのに対し、わずか3ヶ月後の5月には負傷兵死亡率はなんと5%にまで下がったのです。

 

こうした環境改善だけでなく、ナイチンゲールは夜の間、ランプを持って負傷兵の容態を見守り続けました。

灯りの少ない病院の中、ナイチンゲールのランプの灯りは、多くの傷病兵を元気づけました。

こうしたナイチンゲールの姿を人々は「クリミアの天使」と呼びました。

 

こうして、ナイチンゲールの活躍はイギリスの内外に伝わり、彼女は英雄としてイギリスで迎えられます。

しかし、この後からナイチンゲールの本当の戦いが始まったのです。

 

医療環境の改革

クリミア戦争終結後、イギリスに戻ったナイチンゲールは、クリミア戦争の際の負傷兵の環境下における死亡者数など各種統計を披露し、不衛生な環境が多くの兵士の命を奪ったという報告を上げました。

この手法は統計学の走りであり、ナイチンゲールはイギリス統計学の嚆矢とされています。

これは、ナイチンゲールが受けた教育の賜物だったと言えるでしょう。

 

また、ナイチンゲールは必要であれば、誰でも直言する強さを持っていました。

そして、クリミア戦争の際に設立した基金を基に、看護学校を設立します。

この看護学校では、衛生や医療の知識を伝え、専門職としての看護婦の教育を行っていきます。

そして、現在につながる看護教育を築き上げていったのです。

 

ナイチンゲール=看護の強烈なイメージ

しかし、ナイチンゲールは37歳の時に心臓発作で倒れ、以後、ベッドでの生活が主になっていきます。

意外なことに本格的な看護にあたったのは、クリミア戦争の2年間だけでした。

 

37歳以後、ナイチンゲールは著述に舞台を移し、医療の改革を訴え続け、社会を変えていきました。

ナイチンゲールが記した「看護覚え書き」は、今でも看護学の古典として読み継がれています。

 

看護・医療の世界に大きな変革をもたらしたナイチンゲールは、1910年に亡くなります。

墓標は、ナイチンゲールのたっての希望で、イニシャルだけが刻まれています。

イニシャルだけが刻まれたナイチンゲールの墓

 

看護学校の卒業式では、ナイチンゲール像の灯すランプから灯りを授かる儀式を行う学校が多いです。

看護の世界における彼女のDNAは今でも受け継がれているのです。

(筆者・黒武者 因幡)