ガロアと言えば群論の先駆的な研究で知られる数学者で、天才中の天才と評されることも多い。
しかし、彼には革命運動家というもう1つの顔があった。
なぜ、ガロアは革命運動に身を投じるようになったのであろうか?

恵まれた幼少期
エバリスト・ガロアは1811年パリのブール=ラ=レーヌという町で産声を上げた。
父は学校の校長で、後にはブール=ラ=レーヌの町長になるなど、いわば町の名士であった。
母は学者の家系で教養溢れる女性であったという。
エバリストには2歳年長の姉と3歳年下の弟がいたという。
この弟が、後にエバリストの最期を看取るアルフレッドである。
比較的裕福な家庭で幸福な幼少期を過ごしたエバリストであるが、初等教育を施してくれた母のもとを離れて、名門ルイ=ル=グランに入学すると人生の歯車がゆっくりと軋み始める。
運命を変えた留年
ルイ=ル=グラン入学当初は、真面目に学業にいそしみ、ラテン語・ギリシア語においては優秀な成績を収めていたという。
ところが、次第に学業に興味を失っていき健康状態も優れないということから学業不振に陥ってしまう。
おそらく、幼少期のガロアは母とともに開放的な雰囲気で学ぶ環境だったと思われる。
ところが、当時のルイ・ル・グランは王政復古等の影響で保守的な雰囲気であったというからガロアとは当然そりが合わず、学業に興味を失っていったのではないだろうか。
結局ガロアは第2学年で留年することになる。
急に暇をもて余すこととなったガロアは、単なる気まぐれから数学準備級の講義に出席するようになったという。
ルジャンドルが著した初等幾何学のテキストを読み始めたガロアはその面白さにとりつかれてしまい、2年間の教材を僅か2日で読了してしまったと、当時の学友は語っている。
この留年が無ければ、数学者ガロアは誕生していなかったかもしれない。
代数学への傾倒とエコール・ポリテクニーク
その後、ガロアの関心は代数学に移ったようで、5次方程式の解の公式を発見したと「錯覚した」と伝わる。
1824年に「一般の5次方程式は代数的に解けない」ことを厳密に証明したニールス・ヘンリック・アーベルも、同様の「錯覚」に陥ったことがあるというという点は興味深い。
1828年には名門エコール・ポリテクニークを受験するが、不合格であった。
ガロアは数学をほぼ独学で習得していったので、学習に偏りもあったろうし、何よりも数学の受験技術と独創的な才能とは、また別物であるということを如実に表しているようにも思われる。
その後ガロアは飛び級で数学特別級へと進むこととなる。
このクラスでガロアは、優秀な教師にして理解者となるリシャールと出会う。
代数学を熱心に研究していたガロアに、ラグランジュの論文を読むよう薦めたのもリシャールである。
この論文に触発されたガロアは、矢継ぎ早に論文を発表するが、その中にはガロア理論に関するものも含まれていた。
論文紛失事件と父の自殺
1829年、ガロアが17歳の時に後のガロア理論の礎となる論文を、当時ガウスとならび称されていた数学者コーシーに送った。
この論文は素数次方程式の代数的解に関する重要なものであったが、何とコーシーはそれを紛失してしまったという。
レオポルト・インフェルト著「ガロアの生涯」などの伝記では、コーシーが忙しさにかまけて論文を読みもせず、紛失してしまったことになっている。
確かにコーシーはアーベルの論文を紛失したという「前科」があるから、その線を疑いたくなるのは無理もない。
しかしながら、数学史家のタトンが1971年に重要な書簡を発見したことで事態は新たな展開を迎える。
その書簡によるとコーシーはガロアと面会し、学士院会合での論文発表を約束したという。
ところが、不運なことに発表当日、コーシーは体調不良のため会合を欠席し論文の所在はうやむやとなってしまうのである。
数学者である加藤文元氏の著作『ガロア―天才数学者の生涯』では、コーシーはガロアの論文を高く評価し、書き直して学士院数学論文大賞に応募するようアドバイスしたという説を採用している。
コーシーがガロアの論文を「紛失」したか否かはともかく、その研究を高く評価していたことは事実であるようだ。
ところが、自分の研究が認められ始めた矢先、父がアパートの自室にて自殺するという悲劇がガロアを襲った。
当時ブール=ラ=レーヌの町長を務めていた父は自由主義的思想の持主であったという。
一方、王政復古の影響で、司祭たちは保守的な思想に凝り固まっていたため、そりが合わず何かとガロアの父に反発し、誹謗中傷を繰り返したことが自殺の原因とされている。
「保守主義が父を殺した」とガロアが考えたであろうことは容易に想像できる。
この事件がガロアの政治思想に与えた影響は計り知れない。
共産主義運動への傾倒と決闘
父の死後間もなく、ガロアはエコール・ポリテクニークを再受験する。
しかしながら、結果は何と不合格であった。
一説には口頭試問において、くだらない問題に関してくどくど質問され、キレたガロアが黒板消しを試験官に投げつけたため不合格となったという。
ただ、私は少々違った見解を持っている。
というのも、その後ガロアはリシャールなどの働きかけがあったにしろ、出願期間の過ぎていたエコール・プレパラトワール(後のエコール・ノルマル・シュペリウール)を「特別なはからい」によって受験し、合格しているからである。
おそらく、ガロアは数学の受験勉強というものをしたことがなかったのではないか。
数学研究と受験数学は別物であるから、ガロアの得点が若干合格点に届かなかった可能性はある。
それでも、非凡な才能を口頭試問の面接官が見抜き、特別なはからいがなされたのではないだろうか。
エコール・プレパラトワール入学後、ガロアはコーシーの勧めに従い論文を書き直し、学士院に提出する。
ところが、審査員であったフーリエが急死し、またも論文の所在はうやむやとなってしまう。
ガロアの失望は察するに余りある。
この頃からガロアはかなり荒んだ生活を送るようになったと伝わる。
さらに友人シュバリエの影響もあり、共産主義に傾倒し、革命運動に身を投じるようになったという。
1831年7月14日デモ行進の最中にガロアは逮捕され、有罪となる。
コレラの流行により、8カ月あまりで出所するが、女性を巡るトラブルから決闘に巻き込まれてしまうのである。
1832年5月30日ガロアは決闘で負傷し、コシャン病院に搬送されるも翌31日息を引き取った。
享年20歳であった。
あとがき
父の自殺に際し、ガロアはおそらく自由主義者が保守的な勢力に迫害されていることに憤りを感じたに違いない。
社会が自由主義的になれば、自分も少しは浮かばれるという思想にはまる気持ちはわからないでもない。
しかし、イデオロギーが変わったくらいでは、社会の矛盾が無くなりはしないことを指摘してくれる人物はいなかったのであろうか。
(筆者・pinon)