遠藤七郎~新時代の幕開けの為に私財を投げうって戦った波乱な人生~

(筆者・風来坊 Ka-z)

戊辰戦争で、越後(現在の新潟県)を舞台に激戦を繰り広げたのが北越戦争でした。

北越戦争では、草莽隊(農民などで結成されたグループ)の活躍もあり、その中でも新政府軍に与し、勝利に貢献した越後の草莽隊の1つ「北辰隊」とその隊長である遠藤七郎(えんどうしちろう)について紹介します。

新潟市北区の開市神社内にある遠藤七郎の顕彰像です。刻まれている「甘雨」とは、七郎の雅号です。

 

家は代々庄屋で活躍

天保10(1839)年に七郎は、現在の新潟県新潟市北区葛塚の庄屋の子として生まれました。

七郎の行動や思想に関しては、黒船来航により時代が大きく動いた頃幼少期を過ごし、父から国学を学んだこと、父が招いた国学者鈴木重胤(しげたね)の薫陶を受けたこと、20歳を過ぎた頃から各地を巡り、勤皇志士と交流したこと。

そして七郎が、庄屋の家に生まれたことが大きな影響を与えることとなります。

 

遠藤家は、代々庄屋として地域開発や発展に尽力してきた一族で、七郎左衛門の頃には、葛塚に交易の場を作るべく市場の開設に奔走し、葛塚の住民の不便解消に努め、葛塚を地域経済の中心として発展させることに成功しました。

やがて七郎も庄屋を務めていくうちに、水害などにより米価が高騰し、生活に苦しんでいる姿を目の当たりにしたことで、江戸幕府による支配体制では限界と悟り、天皇を中心とした新時代を築くことこそ、人々の生活を豊かにできると考え、勤皇思想を深めていくのです。

 

草莽隊を結成そして戦場の地へ

慶応4(1868)年1月、京都での鳥羽伏見の戦で開戦の火蓋が落とされた戊辰戦争。

上野戦争宇都宮城の戦いが相次ぎ、同年閏4月になると越後で北越戦争が勃発しました。

 

北越戦争が始まると、七郎は家督及び庄屋の職を末弟に譲り、地域の農民と隊を結成し、その隊長に就きました。

七郎が農民隊の結成した時期は不明ですが、表に出てくるのは同年6月でした。

 

この頃、奥羽越列藩同盟に加盟する一方で、勤皇思想が強いため新政府軍よりだった新発田藩は、兵を出すことに迷っていました。

同盟に加盟しながら一向に動かない新発田藩の態度にしびれをきらした米沢藩主の上杉斉憲は、自身が滞在している下関(新潟県岩船郡関川村)に来るよう、新発田藩主溝口直正に伝達します。

 

直正は、奥羽越列藩同盟に従う意思を伝えるべく下関へ向かおうとしました。

直正は当時13歳と幼く、藩主が人質にとられるのではと恐れた新発田の農民や町民が一斉に竹槍や刀剣を所持し、藩主の行く手を阻んだのです。

北越戦争当時、新発田藩藩主であった溝口直正。13歳にしながらも聡明で、藩士や領民からも慕われていたとされています。

 

その際に最も活躍したのが、七郎率いる農民隊で約1000人いたと伝えられています。

農民の終結は他にも新発田藩領であった沼垂などでも起きており、領内の庄屋・名主など有志が事前に調整した上で実行したとされています。

上人数溜付近で、この辺りで七郎ら農民隊や地元新発田の農民・町民らが藩主の行く手を阻んだといいます。

 

7月25日、新政府軍が太夫浜方面から上陸すると、新発田藩は奥羽越列藩同盟から離脱し、新政府軍に与し行動を共にするようになります。

そこで七郎は、松ヶ崎に滞在していた新政府軍の参謀のところへ自ら出向き、七郎率いる農民隊は長州藩干城隊に属し行動することになったのです。

 

隊員数は時期により増減がありましたが、およそ150~180人程だったとされ、出身地が判明している150人弱のうち、七郎の地元葛塚周辺の者が過半数を占めていました。

その後、七郎率いる農民隊は新発田藩と会津藩の境界にあたる、赤谷口での戦いに参加しました。

 

8月14日、七郎の隊と新発田藩の隊が、新政府軍の先鋒隊として会津街道の本道を進軍していくと、同じく進軍する会津軍と遭遇し、正面衝突の大激戦を繰り広げたのです。

戦いは当初、一進一退の戦況であったが、同じころ会津藩の拠点鶴ヶ城でも激しい戦闘となっており、やがて後援が途絶えた会津軍は敗退し、赤谷の民家に火を放ち綱木(阿賀町)まで後退、諏訪峠を越え、会津へ落ち延びました。

北越戦争が終わると、七郎率いる農民隊は、越後に出兵していた長州藩士前原一誠により「北辰隊」と名付けられたと伝えられています。

 

佐渡滞在と若き会津藩士の育成に尽力

明治元(1868)年11月、北辰隊は佐渡へ渡り、翌明治2(1869)年8月までの約10カ月、越後府の判事として佐渡に赴任となった長州藩士奥平謙輔のもと、島内の警備や原野開墾にあたった。

この時に、七郎は2人の会津の少年を葛塚の自邸で匿っていました。

それは、奥平と会津藩士秋月悌次郎との間でやり取りがあり、越後に着いた2人の少年に奥平が、七郎の家を勉強する場として告げたことがきっかけとされています。

 

七郎も国学を学んでいたことから、国学に関する本が多く保管されており、2人の少年は多くの書物を読む機会に恵まれ、大層勉強に打ち込んだそうです。

その2人は、後に陸軍軍人になる小川伝八郎と、東京帝大総長や京都帝大総長を歴任した山川健次郎だったのです。

 

北越戦争時は敵同士であれど、終われば分け隔てなく面倒を見る。

そこには、七郎と奥平との間における深い信頼関係を始め、七郎が新時代に込める情熱、そして次世代を担う若者の力になりたいという強い思いがあったのではないでしょうか。

 

北辰隊の解散から晩年の不遇

明治3(1870)年1月、北辰隊は東京へ出発し、同じく越後で結成された草莽隊の「居之隊」、「金革隊」とともに、第三遊軍隊として編成。

東京の警備に当たったとされています。

東京ではフランス式の訓練を受けたといわれています。

 

しかし同年9月に帰郷し、北辰隊は解体してしまいます。

北辰隊の旧隊員は明治4年に、新潟でお雇い外国人キングが賊に襲撃され負傷する事件が起きた際、警察的用務に駆り出されたものの、明治新政府の官吏として採用されるには至りませんでした。

この年の10月、七郎は奥平宛1通の手紙を送っており、そこには「俗吏輩之疑深ク」とまで記しているほどでした。

北越戦争時は新政府軍に与し新時代の為戦った七郎が、既に新政府軍の目指す国家政策に批判的な姿勢を示しており、新政府側としても要注意人物となっていたことが窺えます。

 

明治7(1874)年5月に、不平士族の仲間という疑いをかけられ、警戒の目を向けられたのです。

すると、親交の深かった長州藩士の前原一誠奥平謙輔が、明治9(1876)年10月に出身地の萩で挙兵すると(萩の乱)、前原との関係を新政府から疑われ、11月に投獄され、12月に東京へ護送、懲役50日の刑に処されたのです。

 

明治9年の萩の乱以後の七郎は、各地を放浪しては画を描き、詩をしたためるなどの生活を送ったといわれています。

明治15(1882)年頃に、財産を投げうった北辰隊の活動などが大きな原因となり、遠藤家は没落してしまいました。

 

七郎は葛塚から新潟、東京へと移住し、明治25(1892)年1月、54歳で亡くなりました。

没落した為、七郎の葬儀を執り行うことに支障があるほど妻子は窮乏していたようです。

しかし七郎没後も、地元葛塚の人々は地域に尽くし豊かに暮らせる時代を求めて行動した七郎の功績や活躍を讃え、そして慕い続けたといいます。

没後30年以上が経過し、昭和3(1928)年に、葛塚の人々の願いが認められ、明治維新での勤皇の功績に対し、七郎に従五位が贈られました。

新潟市北区にある開市神社です。昭和3(1928)年に贈位を記念して、七郎も神として祀られたとされています。

 

新時代のために自身の私財を投げうって行動し続けた七郎の思いは、北越戦争が終戦し150年を経過した今でも、地元の人に受け継がれているのではないでしょうか。

(筆者・風来坊 Ka-z)