幕末のスーパーマン 江川英龍

幕末において、最大の英雄を挙げるなら、あなたは誰の名前を挙げますか。

海洋国家に向けて夢を描いた坂本龍馬、士農工商の枠を超えた強力軍団・奇兵隊を創設した高杉晋作、幕府に殉じた真の武士の集団・新選組の面々……、などそれぞれに贔屓の偉人がいると思います。

 

しかし、それらの人物たちが活躍できる素地を作った知られざる英雄がいます。

その人物とは、伊豆・韮山の代官だった江川太郎左衛門英龍(以後、英龍)です。

一番有名な江川英龍の画 頭よさそう……

 

この英龍なくして、私たちが知っている幕末の英雄の活躍はなかったと言える人物です。

でも、「そんな人、知らない」という人が多いと思います。

そこで、今回は、幕末のスーパーマンである江川英龍の業績を皆様に紹介いたしましょう。

 

アクティブなお代官様

代官といえば、将軍に代わって天領(幕府領)を治める役職です。

英龍の生まれた江川家は、代々、伊豆・韮山を治める代官の職を務めていました。

 

しかし、代官のイメージは、何といっても時代劇に出てくる悪代官でしょう。

しかし、江川家は代々、領民を大事にし、民に慕われていました。

英龍も同様です。そして、そのことが、後々、大きな意味を持ってくるのです。

 

さて、英龍ですが、実際はかなりアクティブな性格の人でした。

若い時分、領内の治安や政治がうまく機能しているかどうかを知るため、旅人や行商人の姿で探索することがありました。

その御供は、後に江戸三大道場である練兵館をつくった斉藤弥九郎でした。

弥九郎は、英龍の友人で、一緒に見回りにでることが度々ありました。

水戸黄門よりも、暴れん坊将軍に近いような実話です。

 

江戸にある練兵館跡の碑

 

少し遅く35歳になって代官職を父から継いだ英龍ですが、代官職として管轄する地域は、伊豆・韮山だけでなく、相模や武蔵の沿岸部も含まれていました。

天保年間は、外国船が度々日本近海に姿を現していました。

その最前線を任されていた英龍は、迫りくる欧米列強の圧力を、直接感じ取っていました。

だからこそ、英龍は海防強化に向けて、活動していきます。

 

西洋砲術を学ぶ

欧米列強と渡り合うためには、海防の重要性を感じていた英龍は、長崎で西洋砲術の大家、高島秋帆に弟子入りし、砲術を学びます。

その砲術を独自に改良し、日本でも屈指の砲術の大家になりました。

その英龍の許に、佐久間象山橋本佐内という後に幕末に活躍する人物たちが弟子入りしてきています。

 

お台場建設

嘉永6(1853)年、ペリー率いるアメリカの艦隊が、浦賀に来航しました。

この時幕府は、西洋艦隊が江戸湾に簡単に侵入できる事実に気づき、驚愕します。

このままでは、簡単に江戸の町に砲撃が加えられてしまうのです。

 

この最悪の事態を避けるため、幕府は品川沖に砲台場の建設を英龍に命じます。

この砲台場建設は、突貫工事でした。

しかし、何とか格好がつくまで11基の砲台場を建設するまでもっていきます。

 

翌年、再びペリーが来航した際、短期間で砲台場を備えた日本の国力に驚いたペリーは、日本を武力で脅す戦略の修正を図ったと言われています。

ちなみにこの品川台場のあった土地が現在のお台場です。

今も残る品川第三台場跡 向こうにはフジテレビ本社が見えます

 

それだけでなく、英龍は領民の間から砲術や銃器の扱いに取り組む農兵集団を結成します。

武士の表芸の剣術が西洋に効かない以上、刀槍にこだわらない新しい軍隊の創設を考えたのです。

 

長州の麒麟児 弟子入り

英龍の許に、ある一人の青年が弟子入りします。

この青年は、長州出身で、英龍の友人の斎藤弥九郎の開いた道場の師範代になるほどの腕前の青年でした。

その青年の名は桂小五郎

弥九郎からの紹介で、小五郎は英龍の許で書生として付き従いました。

 

この時、英龍は、やはり変装して領内や湾岸を見て回りました。

武士の前では本音をはかない庶民が、商人や職人に化けた英龍や小五郎の前では、本音を語ります。

武士のままでは見えてこない世の中の動きを知ることができると小五郎は学んだのです。

 

英龍の許での変装の経験が、小五郎の命を何度も救いました

英龍の許で、小五郎は本格的な海防知識や砲術の知識に加えて本格的な変装技術を身につけました。

この変装術が、後に尊王攘夷派が駆逐された京都において、小五郎は京都に潜伏します。

この時、小五郎は変装術で幕府の追及の手を躱すことができたのです。

英龍は維新の立役者の師であり、恩人でもありました。

 

農兵の訓練が新選組を作った

英龍の支配地域には、武州多摩も含まれていました。

英龍は武士身分に拘らず、日本を守るためには、皆が力を合わせることが大事だと考えていました。

そのため、多摩地域でも農兵の組織や訓練を奨励しました。

 

そのため、多摩地域での流派である天然理心流を学ぶ人が増えていきました。

多摩の名主だった佐藤彦五郎は、英龍と交流がある人物でした。

そして、彦五郎の義弟は土方歳三です。

歳三は、英龍の農兵の構想や実力主義を学んでいたと言われていて、英龍の思想が新選組の結成につながったともいえるのです。

 

英龍の死

時代はますます混とんとしてきます。

この時代に合わせて、英龍は韮山の反射炉建設を進めます。

また、当時、世界でも珍しい爆裂砲弾(近代的な砲術の砲弾)の自力での製作に成功しています。

この時の製作図案を江戸参府の際のオランダ軍人に見せて驚かせたと言われています。

英龍が完成を急がせた韮山反射炉。完成は、英龍の死後になりました。2015年に世界遺産に登録されました

 

正しく当時、英龍は日本最高峰の砲術家であり、軍人であり、政治家だったといえるでしょう。

しかし、韮山と江戸を何度も往復する日々と日常の激務が、英龍の体を蝕んでいました。

安政元年末に英龍は韮山の自宅で病に倒れました。

 

しかし、英龍にゆっくりと養生をさせる余裕は幕府にも時代にもありませんでした。

幕府から江戸に来るよう要請があり、英龍は病をおして江戸に入ります。

しかし、江戸の屋敷に着いたときは、既に英龍に起き上がる力は残されていませんでした。

それでも、登城しようとする英龍は、最後、周囲の人間に「馬、ひけい」と言って、意識を失いました。

この言葉が、英龍最期の言葉になりました。

現代風で言えば、あきらかな過労死です。

 

英龍が残したもの

英龍の事績を知れば知るほど、英龍はあらゆる分野に足跡を残したスーパーマンだと感じます。

もし、この時代に英龍がいなかったら、果たして日本は独立を保ちえたのでしょうか。明治維新を迎えられたでしょうか。

西欧の力を感じるからこそ抱いた危機感が、英龍を生き急がせたと言えるのかも知れません。

 

そして、日本を西洋に負けない国にしなければならないという想いを受け継いだ桂小五郎などの人物が、近代国家日本建設に尽力していきました。

英龍は誰もが知っているというような有名な人物ではありません。

しかし、英龍が幕末日本のキーマンであったことは間違いありません。

(筆者・黒武者 因幡)

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