~なけりゃ官軍高枕 東北戊辰戦争で官軍を恐れさせた男たち~
慶応4(1868)年1月に鳥羽伏見の戦いに端を発した戊辰戦争は、江戸城を開城させ、関東を下すと、次の主戦場を東北に移しました。
近代化した軍制と武器をもつ薩長土肥を中心にした新政府軍と会津藩・庄内藩を守ることで結束した奥羽越列藩同盟の戦いが繰り広げられていました。
戦は、近代化が進んだ新政府軍が各地で同盟軍を撃破し、東北戊辰戦争は新政府軍の勝利に終わったのです。会津藩の白虎隊の悲劇などは有名ですね。

しかし、敗れた同盟軍側にも新政府軍を恐れさせた男たちがいました。
ここでは、あまり知られていない男たちの物語をご紹介しましょう。
仙台藩の鴉(からす)組
伊達政宗を初代にする東北の雄・仙台藩は、東北諸藩のリーダーとしての役割を担っていました。しかし、実際に戦が始まってしまうと、仙台藩の兵は弱かったのです。
新政府軍の新型大砲・アームストロング砲の音が聞こえると、仙台藩士たちは陣を5里(約15キロ)も下げてしまったことがありました。
このため、敵味方から「仙台のドン5里兵」と揶揄されました。(ドンという音で5里逃げたという意味です)
こうした中で、仙台藩士・細谷十太夫が組織した衝撃隊は、その勇猛果敢さで敵味方に知られました。衝撃隊は、黒つくめの衣装で夜襲を得意としました。
そして、隊長の十太夫は、黒色に鴉を描いた鎖帷子を着用し、隊員たちも黒づくめだったことから、鴉(からす)組と呼ばれていました。

この鴉組の特徴は、武士がほとんどいないということでした。
長州藩では、武士以外の身分のもので組織した奇兵隊があり、長州藩の主力部隊として名をはせましたが、鴉組もまた、武士身分以外の者たちで組織されていたのです。
十太夫は、幕末に隠密(スパイ)として、東北や江戸の情報収集に当たっていました。そこで、武士以外の人間たちの特徴をよく知っていたのです。特に博徒ややくざ者、職人などの侠気に富んだ性格や猟師の鉄砲の腕などを熟知していました。
そして、残念ながら武士たちにそこまでの度胸も気概もないということを知らされたのです。
そこで、十太夫は、東北戊辰戦争の緒戦にあたる白河城攻防戦を前に、博徒ややくざ者、職人、猟師たちを中心に十太夫に心服する人を組織して、鴉組を結成し、新政府軍と戦ったのです。
無論、正攻法ではなく、ゲリラ戦や夜襲を行う戦法をとるのですが、闇夜の中でも獲物を狙う目を持つ猟師、恐れずに敵陣に斬りこむやくざ者たちと一癖も二癖もある者たちです。
この鴉組の戦法は、新政府軍を大いに悩ませました。以後、白河城だけでなくその後も十太夫たちは30戦以上新政府軍と戦い、一度も負けなかったと言われ、仙台藩が降伏するまで、鴉組の活躍は続きました。
棚倉藩(たなぐらはん) 16ささげ
棚倉藩は、たびたび殿様が転封される複雑な地でした。戊辰戦争当時は、阿部正静が藩主でしたが、正静の父・正外は、幕府の老中として活躍した人物でした。
しかし、朝廷の勅許を得ずに諸外国にむけて開港した責任を取って、老中を辞任。棚倉藩に転封されてきた家柄でした。
阿部家は老中を務めた家柄でもあり、同盟側に加担し、新政府軍と敵対する決断をします。そして、新政府軍と同盟軍が激突する白河城に藩兵を出しました。
この時、棚倉藩は洋式整備を進めていた藩兵を白河に出陣させました。
しかし、実はもう1隊をひそかに白河口にむけて進発させたのです。それが、家老・阿部内膳率いる16名の少数精鋭部隊の誠心隊でした。
この誠心隊は、古式ゆかしく甲冑を身にまとい、刀や槍や弓矢を手にして出陣したのです。時代遅れと言えば時代遅れの集団で、戦国時代からタイムスリップしてきたような一団でした。

この誠心隊は、ゲリラ戦や夜襲で敵を悩ませました。のちの時代になりますが、西南戦争で薩摩軍の抜刀攻撃が政府軍を悩ませましたが、同じ状況が奥羽で起きていたのです。
この誠心隊は16人でしたから、インゲン豆に似た豆でさやの中に16個の豆が入っているささげ豆にちなみ、16ささげ隊と新政府軍に綽名されました。
この2つの部隊を讃えた歌が、東北では流行りました。
「細谷鴉に十六ささげ なけりゃ官軍 高枕」
有利に戦いを進める新政府軍でしたが、鴉組と十六ささげには手を焼いていたのがわかります。
2隊のその後
白河城攻防戦で活躍した2隊ですが、その後の活躍は明暗を分けました。
十六ささげを率いる阿部内膳は、新政府軍の前に討死を遂げました。隊長を失った十六ささげは、白河城攻防戦の最中で壊滅してしまったのです。

その後、棚倉城は新政府軍に包囲され落城します。その際、戦犯として棚倉藩は阿部内膳を指名し、内膳のおかげで藩主に処分が下るのを防ぎました。
一方の、十太夫は白河城攻防戦後も仙台藩兵たちと戦い続け、新政府軍を悩ませます。
そして、仙台藩の降伏後、十太夫たちは新政府軍から戦犯として、指名手配を受けるも、逃げ続けました。そして、赦免後は西南戦争で陸軍少尉として従軍。日清戦争でも戦っています。
そして、晩年は、龍雲寺の住職になり、「鴉仙」と名乗り、生涯を閉じました。

いかがでしたか?
東北戊辰戦争は会津藩の戦いが有名ですが、奥羽全土が戦場になりました。そして各地で命をかけて戦った奥羽の男たちもまた存在していたのです。
(筆者・黒武者 因幡)