鬼と呼ばれた男たち2 不死身の鬼美濃 馬場信春

上杉謙信とともに戦国時代最強とも謳われている武田信玄

織田信長も、信玄が生きている間は、武田家との戦は徹底的に避けていました。

 

その武田家を支え武田の四名臣と称されたのが武田の副将・内藤昌豊、他国が恐れる赤備・山県昌景、戦上手の逃げ弾正・高坂昌信、そして、不死身の鬼美濃・馬場信春でした。

ここでは、鬼と呼ばれた馬場信春をご紹介していきます。

馬場信春

 

信玄側近として仕える

信春(呼び名が変わるが信春で統一します)は、武田信玄の父である武田信虎の代に武田家に仕えました。

信春は、信玄の初陣である海ノ口城攻めで、敵将の平賀源心を討ち取る働きをみせました。

 

信玄が父・信虎追放においても中心となり、信玄が家督を継いだ後、主力を担う将として活躍していきます。

そして、諏訪攻めなどでの功績を評価され、譜代の家老衆に加わり、名実ともに武田家の重臣として活躍していくことになります。

また、築城にも詳しく、(一説には築城術を山本勘助から伝授されたとも)信濃松本に深志城を築城します。

この深志城は、のちに松本城に改名されます。

現在の松本城 礎は信春が築いています

 

数々の戦に従軍

信春は生涯で70もの戦に出て、傷一つ負わなかったことから「不死身の鬼美濃」と称されました。

そして、信春は大きな戦で、数々の逸話を残しています。

 

1561(永禄4)年 第4次川中島の戦い

信玄と謙信が真っ向からぶつかったこの戦いでは、信春は重要な働きを行っています。

この戦いで信玄は山本勘助のきつつき戦法を採用します。

山上に陣取る謙信の陣に別動隊をもって奇襲させ、驚いて平地に出てきた上杉軍を信玄の本隊と挟み撃ちにしようと考えました。

この時、別動隊を率いたのは、信春と同じく4名臣とされる高坂昌信でした。

この策は、謙信に見破られて、信玄が窮地に陥ってしまいますが、信春らの別動隊が駆け付けると戦況は逆転します。

信玄の命を辛うじて救ったのです。

別動隊の到着が遅れたら、信玄も危なかった

 

1568(永禄11)年 駿府攻め

今川家を破り、駿河を手に入れた際に、信玄は駿府城にある今川家の財宝を保全するように各将に命じました。

しかし、信春はその命を守らず、宝物庫に火を放ってしまいます。

 

周りが咎める中、信春は平然と、「もし宝を手にしてしまえば、お屋形様(信玄)は、財宝欲しさに(縁者・親戚の)今川を攻めたと言われる。後世の物笑いになってしまう」と言いました。

信玄もこれには苦笑いし、咎めだてませんでした。後世の残る汚名を恐れた信春の気持ちが伝わったのでしょう。

 

1569(永禄12)年 三増峠の合戦

前年の駿河侵攻において、信玄と北条氏康の対立は決定的になりました。

そして、この年信玄は北条家の本拠地である小田原城を包囲しましたが、落とすことはできませんでした。

その撤退時に、武田軍と北条軍が激突したのが、三増峠の合戦でした。

数の上では大きく勝る北条軍に対し、武田軍は序盤に苦戦するものの、最終的には勝利し、甲州まで引き上げに成功しています。

この戦いにおいても、信春は功を挙げています。

 

1572(元亀3)年 三方ヶ原の戦い

信玄の上洛戦に伴い、徳川軍と戦った三方ヶ原の戦いでは、浜松城から出陣した家康と武田軍が、三方ヶ原で激突しました。

戦いは、武田軍の圧倒的勝利に終わりますが、信春はこの時、家康を浜松城まで追い詰める働きをします。

この追撃する信春やその手勢に家康は恐怖し、戦後もたびたび悪夢としてみることがあったそうです。

 

勝頼の代になって……

しかし、信春が仕えていた信玄は、1573(元亀4)年に死去します。

その跡を継いだ武田勝頼は、「強すぎる大将」と言われます。

 

信玄の跡を継ぎ、勢力を拡大する姿勢は素晴らしいのですが、退くを知らない性質でした。

常勝武田軍を率いる中で勝つことしか知らない勝頼の姿は、砥石崩れなど負け戦も知っている信春には危なく映ったのでしょう。

たびたび諫めるものの、やがて信春ら老臣と勝頼の間には溝ができていってしまいます。

この時の、信春の心境はどのようなものだったでしょうか。

 

不死身の鬼美濃の最期

そして、信春らが恐れた事態がついに起きました。

1575(天正3)年、勝頼は長篠城を攻撃します。

その背後で、織田徳川連合軍が迫るという報を聞いた信春らは、勝頼に撤退を進言しますが、容れられませんでした。

 

そして、起った長篠の戦いで武田軍は惨敗。

山県昌景内藤昌豊はじめ多くの将を失ってしまったのです。

この敗戦で、殿(しんがり)を引き受けたのが、信春でした。

 

信春は、勝頼の戦場離脱を見届けてなおを戦いを続けます。

追撃する織田徳川軍を何度にも渡って撃退します。

この時の信春の戦いぶりに信長公記では「馬場美濃守、手前の働き比類なし」と最大級の賛辞を送っています。

 

しかし、いかに不死身の鬼美濃といえども、限界が訪れました。

追撃を続ける織田勢の前に、討ち死にとも首を差し出したともいわれています。

不死身とも鬼ともいわれた名将もついに新興勢力である織田家の勢いの前に命を落としたのです。

馬場美濃守の最期

 

信春への敬意

しかし、信春はその生き様や最期もあって、敵味方に敬意を抱かれました。

特に三方ヶ原で惨敗した徳川家では、かえって信春への尊敬の念を抱く者が多くいました。

 

徳川家康の股肱の臣である鳥居元忠などは、隠れていた信春の娘を探し出し、妻として迎えたほどでした。

また、もう1人の娘も、真田昌幸の弟で旗本になった信伊の妻になっています。

ほかの子孫も江戸時代を通じて優遇され、旗本や各地の名主として家を保ちました。

鬼と呼ばれた信春の生き様や戦いぶりは、徳川家の武士の心に強い印象を残し、家名を保つことにつながったのです。

(筆者・黒武者 因幡)

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