室町幕府6代将軍足利義教は暴君だったのか?

日本史に興味があっても、室町幕府6代将軍足利義教(あしかがよしのり)というと「残虐的な暴君」というイメージしかわかないという人が多いであろう。

ところがよくよく調べてみると、義教にはまた別の評伝が存在することがわかるのである。

一体、義教の「別の顔」とはいかなるものなのであろうか?

足利義教

 

「還俗将軍」義教

足利義教(よしのり)は1394年6月13日3代将軍義満の子として生まれた。

二男であったとも言われるが、実のところははっきりしていない。

 

兄の義持が4代将軍候補となったため、1403年には青蓮院にて出家し、義円(ぎえん)と名乗ることとなる。

義円は極めて優秀であったらしく、1419年には天台座主に就任するまでに出世し、「天台開闢以来の逸材」とまで評されていたという。

 

兄である4代将軍義持は、かなり地味な印象を持たれることが多いが、偉大な父・義満亡き後、守護大名との関係を巧みに調整し、政権の安定に努めたことで知られ、その将軍在位期間28年は室町時代最長である。

義持は将軍位を38歳という若さで嫡男義量(よしかず)に譲る。

 

ところが、5代将軍となった義量はその2年後の1425年に19歳という若さで死去してしまう。

後継者が存在しないということもあり、義持が将軍不在のまま、前将軍として政務にあたることとなる。

その義持も1428年に病に倒れるが、病状が悪化するに及んでも何故か後継者の指名を拒否したという。

このような事情から、幕府の重臣たちの協議により、義持の弟である梶井門跡義承(ぎしょう)・大覚寺門跡義昭・相国寺虎山永隆(えいりゅう)・義円の中からくじ引きによって次期将軍を選ぶという前代未聞の有り様となったのである。

 

前代未聞は「くじ引き」だけではなかった。

候補者全員が出家した身分だったため、誰が将軍になっても、武家においては史上初の「還俗将軍」となってしまう点も注目に値しよう。

このくじ引きは義持が没した1428年1月18日に行われたが、その結果選ばれたのは義円であった。

義円は3月12日に還俗して義宣(よしのぶ)と名乗ったが、出家していたため剃髪の状態で官位もなかったため、髪の伸びるのを待ちつつ官位を上げていくという特殊な方法が採られたという。

 

明けて1429年3月15日義宣は義教と改名し、ようやく将軍宣下を受けることができたのである。

義教の将軍就任を苦々しく思っていたのは鎌倉公方の足利持氏であったであろう。

持氏は4代将軍義持の猶子となっていたという経緯があるため、義持の死後は自らが征夷大将軍になれると信じていたという。

そういう事情もあってか、持氏は義教を「還俗将軍」と呼び蔑んでいたとされる。

 

万人恐怖

足利義教と言えば、苛烈な性格で、それ故恐怖政治を布いたというイメージを持っている方も多いと思う。

しかし、森茂暁氏著『室町幕府崩壊』によると、義教の政治は最初から恐怖政治ではなかったらしい。

大きな分岐点は1431年に室町幕府相伴衆にして周防・長門・豊前守護であった大内盛見(もりはる)が九州遠征中に敗死してしまったことだという。

 

大内盛見は、義教より筑前にある幕府御料所の代官に任命されるほど信頼の厚い武将であった。

少弐満貞大友持直、そして菊池兼朝と筑前の領有をめぐって争った盛見が敗死したことで、九州における幕府の支配権がほぼ失われてしまったことは義教にとって大きな衝撃であったと思われる。

さらに悪いことに、細川持之山名常熙ら有力守護に菊池兼朝追討を命じたが、どちらも軍を動かすことはなかったのである。

このぬるい対応に業を煮やした義教が、次第に強権的な政治姿勢を取るようになっていった可能性が指摘されている。

 

実際、1431年以降、義教の政治が苛烈になっていくのが確認できる。

延暦寺との抗争もその1つであった。

ことの発端は、1433年に延暦寺が幕府の山門奉行に不正があったとする弾劾訴訟を起こしたことに始まる。

このときは管領細川持之の融和策を取るべしという献策を容れて、奉行を配流することで事態は収まった。

 

ところが、調子に乗った延暦寺は何と、訴訟に同調しなかった園城寺を焼き討ちするという暴挙に出たのである。

これ以降、義教は何度か兵を延暦寺に差し向け、1434年11月には比叡山の門前町である坂本を焼き討ちしている。

結局延暦寺は降伏したため、義教は渋々これを赦免するが内心は全く許しておらず、謀略を用いて山門使節4人を出頭させ、その首をはねたという。

 

義教の苛烈さは敵対する政治的勢力だけでなく公卿や女房などにも及んだ。

中山定親の日記『薩戒記』によると1434年の6月時点で公卿59名、神官3名、僧侶11名、女房7名が処罰されたというから驚く。

伏見宮貞成親王の『看聞日記』1435年2月8日条には、この様子が「万人恐怖、言フ莫レ、言フ莫レ」と記されている。

 

幕府権威の復興に貢献?

「万人恐怖」と評された義教の政治であるが、それは単に彼の嗜虐性によるものだったのであろうか。

義教の政治を別の角度から見ると、意外な点が浮かび上がってくる。

室町幕府の勢力圏は義満の代に最大であったと考えている人は多いと思うが、実は義教の代に最大となるのである。

 

歴史作家明石散人氏によれば、義教はイメージとは違い戦上手で諸勢力と13年戦い続け無敗であり、義満ですら出来なかった九州平定・鎌倉府制圧を成し遂げた名将であるという。

また、義持の代に停止していた勘合貿易を再開するなど、幕府の立て直しにかなりの実績を残しているのである。

 

義教暗殺

1439年の永享の乱で鎌倉公方足利持氏を滅ぼし、持氏の遺児を奉じた結城氏朝が挙兵した1440年の結城合戦にも勝利した義教は、以前から行っていた守護大名の抑制政策を加速させる。

1440年に対立を深めていた宿老赤松満祐の弟赤松義雅の所領を没収したことを皮切りに、有力守護の一色義貫土岐持頼を大和出陣中に謀殺し、その所領を近習に分配したという。

そんな中、赤松満祐は1441年6月24日に、子の教康を介して義教を祝宴に招待した。

その席にて、義教は首をはねられあっけなく暗殺されてしまったのである。

世に言う「嘉吉の乱」である。

 

あとがき

癇性病みな性格のみがクローズアップされがちな足利義教であるが、将軍としての才覚は天才的であり、その点では父義満以上であったようである。

癇性病みで天才的な武将と言えば織田信長が真っ先に思い浮かぶが、実は信長と義教には不思議な共通点が見られる。

どちらも比叡山を焼き討ちし「魔王」と評されているし、侍女や女房など身の回りの世話をする者に対しても厳しかったことで知られる。

そして、重臣の謀反による最期も共通しているのだが、謀反を起こした赤松満祐明智光秀の居城が、何とどちらも坂本城という名なのである。

ここまで来ると、単なる偶然の域を超えている気がするのは私だけだろうか。

(筆者・pinon)