明智秀満とはどんな人物?琵琶湖を渡った伝説をもつ武将の生涯に迫る

〜「明智秀満」琵琶湖を渡った伝説をもつ武将の生涯に迫る〜

「裏切り者」という不名誉な称号とともに高い知名度をもつ明智光秀

その光秀が重用し、随一の信頼を置いた家臣が明智秀満(あけちひでみつ)です。

秀満は明智家が滅びるまで光秀に仕え続け、彼の出世を大いにサポートしました。

 

しかし、その一方で秀満の生涯についてはそのほとんどが信ぴょう性の低い記述や伝説で知られているのみであり、彼の実像は現代においてもなお不詳と考えられています。

そこで、この記事では出来得る範囲で史料に基づいた秀満の生涯を紹介していきます。

肖像・明智秀満

 

光秀が信長に仕え始めるまでの半生は未詳

まず、秀満の生年や出自、前半生については、その大半が謎に包まれています。

その理由としては、明智家が江戸時代を迎えることなく滅んでしまったため、彼らの事績はその大半が記録として後世に伝わらなかったためです。

 

そのため、光秀に仕えるまでの半生や生年は不詳というほかなく、妄想のほかに書きようがないというのが実情です。

ただし、近年の研究で秀満の出自そのものが通説とされていた明智氏ではなく、明智氏に家臣として仕えていた三宅氏という一族の出身であるというのが有力な説となっています。

秀満は通称として「三宅弥平次」という名を名乗っており、ここにも三宅氏説の根拠が示されていると見るべきでしょう。

 

『明智軍記』という後世に創作された軍記物によると、秀満の前半生は通説で父とされていた明智光安という人物に付き従っていたものの、美濃斎藤氏の争いで敗北することになる斎藤道三に味方したことで立場が悪化。

居城を攻められからくも逃げ延びたものの浪人の立場になってしまったようです。

 

そして、その後は共に城を脱出した光秀を当主として仕え、彼が低い立場からしだいに立身出世していくのをサポートすることになりました。

光秀は信長に仕えるまで朝倉氏や足利将軍家に仕えていたと考えられており、彼もまた同様の遍歴を辿ったのでしょう。

 

後半生は史料でもその活躍が確認できるように

秀満の名前が史料で確認できるようになるのは天正8年(1580年)ごろのことであり、この時期には明智家の筆頭家臣として光秀から全幅の信頼を得ていたようです。

あくまで推測ではありますが、光秀とは親と子ほどの年齢差があったという見解もあり、世代を超えて能力を見込まれていたのでしょう。

 

天正9年(1581年)には光秀が平定した丹波国の福知山城城代に任命されており、この平定に関しては秀満も多大な貢献をしていたことが推測できます。

また、この福知山という地は交通の要衝であり、戦国時代は非常に重要な拠点と考えられていたようです。

 

安定した立場を勝ち得ていた秀満ですが、主君光秀のとある計画によって、彼の生涯は大きく変わっていくことになります。

天正10年(1582年)、秀満ら一部の重臣は光秀から「信長への叛乱」という一大計画の相談を受けたようです。

彼の意向に対して秀満は反対の意を唱えたとも伝わりますが、光秀の決意は固かったのか、謀反は決行されることになります。

 

こうして、同年6月2日未明、光秀を中心とした明智勢による一大クーデター「本能寺の変」が勃発したのです。

皆さんも知っての通り変そのものは成功し、秀満も作戦の成功に貢献したと考えられています。

 

戦後に秀満は安土城の守備を命じられましたが、細川や筒井といった有力な勢力に見放された明智勢は、しだいに窮地に陥っていくこととなります。

そして、毛利攻略から舞い戻った羽柴秀吉との間に勃発した山崎の戦いに敗れると、その知らせを聞いた秀満は安土からの脱出を決意しました。

 

伝説の「湖水渡り」は真実か否か

安土から明智勢の本拠である近江の坂本へと逃走を試みた秀満。

しかし、山崎で本隊が破れたことにより軍勢が安土周辺を包囲し、さらに立地上四方を琵琶湖に囲まれていました。

 

そこで、秀満は仰天の手法でこの窮地を脱したという伝説があります。

彼は、馬上に騎乗したまま馬に琵琶湖を渡らせ、そのまま対岸の近江へと脱出したというのです。

これは「左之助(秀満の通称)の湖水渡り」と名付けられ、後世でも絵画や創作の題材として人気を博しました。

 

しかし、この逸話は残念ながらあくまで創作に過ぎないと考えるべきでしょう。

確かに馬はイメージほど水を怖がる生き物ではありませんが、琵琶湖の数キロにおよぶ幅を渡り切ったというのは現実的ではありません。

また、具体的にその行動を裏付ける証拠もないことから、近年の研究では普通に舟を用いたというのが一般的な見解です。

 

いずれにしても窮地を脱出した秀満は坂本城へと入りましたが、城内の状況からこれ以上の抗戦は不可能と判断。

光秀や自身の妻子を介錯すると、城に火を放ち自身も自害したと伝わっています。

ちなみに、秀満が安土城天守に火を放ったという史料が残されていますが、これは史料側の誤りであり彼の手による被害ではないとの見方がなされるようになっています。

 

【出典】
谷口克広『織田信長家臣人名事典』吉川弘文館、2010年。
谷口研語『明智光秀:浪人出身の外様大名の実像』洋泉社、2014年。
和田裕弘『織田信長の家臣団-派閥と人間関係』中央公論新社、2017年。

(筆者・とーじん)