会津藩と長州藩は仲悪いだけではない!その影で確かな絆があった!

〜会津と長州の絆〜

犬猿の仲、不倶戴天の敵、など決して交わらない相手のことを表現する言葉は数々あります。

中国でいえば、呉と越でしょうか。お互いを憎い相手として、決して許そうとしなかったほど関係が悪かったことで有名です。

日本において、この呉と越にあたるのは、会津と長州になるのではないでしょうか。

幕末維新の恨みを現在まで引きずっていると言われています、特に、会津を山口県ナンバーの車で走ると、白い目で見られると聞きます。

会津藩降伏の絵 会津と長州の遺恨の根になっています

しかし、会津と長州は元から憎みあっていたわけではありません。

むしろ、最初は友好関係にすらあったのです。

巷では会津と長州の間の遺恨ばかりが話題になりますが、その陰に隠れた会津と長州の絆について、ここで紹介していきましょう。

日新館教授との絆~吉田松陰~

会津と長州のつながりは、幕末に生じました。そのきっかけは、なんと吉田松陰なのです。

吉田松陰は、1851(嘉永4)年に東北に遊学の旅に出ています。

この旅は、吉田松陰の通行手形の発給が遅れてしまったのですが、吉田松陰は盟友である肥後の宮部鼎蔵と南部の江幡五蔵との出立の日時を守るために手形を待たずに吉田松陰が出立したため、脱藩という形になってしまったといういわくつきの旅でした。

 

この旅の途中で、吉田松陰と宮部鼎蔵は会津藩を訪れています。1852(嘉永5)年1月29日のことでした。

この会津訪問は、松陰にとって、ひじょうに有意義なものでした。松陰は故郷への手紙の中で、「会津は文武両道の武士が多く、会津に寄ってよかった」と書いているほどです。

特にこの会津訪問で松陰の印象に残ったのが、会津藩校・日新館の教授たちでした。

教授の一人、高津平蔵とは海防について意見を交換。また、会津藩の軍事奉行の広川勝介とは、会津藩の兵制や軍事教練について話し合っています。

そして、日新館の重鎮であった黒河内伝次郎とは意気投合し、松陰は日新館を伝次郎の案内で見学しています。

藩にとって、どのような教育を行っているのかは、本来は他藩の人間には見せないものですが、伝次郎たちはそんなことは無視して、松陰の見学を許したのです。

吉田松陰の訪問を会津藩士たちは歓迎しました

このように会津藩士たちは、長州藩の若き軍学師範である松陰に惜しみなく知識を与えています。

きっと、松陰の情熱に伝次郎たち会津藩士が心を打たれたからなのでしょう。

 

一方で、この会津藩士たちの姿勢に感激した松陰は、将来、長州が手を携えるべき相手は会津であると考えたほどでした。

この時の松陰の頭の中には、迫る欧米列強からの危機の中で、信じられるのは、教育のしっかりした会津だと考えたのでしょう。

そして、教育の力を信じた松陰は、松下村塾で若者たちへ教育を行っていきます。

そのきっかけの一つは、会津藩にあったのではないでしょうか。

その松下村塾から維新をリードずる人材が輩出されていきますが、同時に教え子たちと会津藩との間で遺恨が生じることになるとは、松陰も思わなかったでしょう。

 

会津の友人のために~奥平謙輔~

幕末維新の激動の時代は、会津と長州を不倶戴天の敵にしてしまいました。

その経緯は他に譲ろとして、1868(慶応4)年の戊辰戦争では、会津も主要な戦場になってしまいした。

特に長州は、会津を目の敵にして攻め込んできたので、会津藩ではあちこちで悲劇が起きました。

白虎隊の悲劇や、娘子軍と中野竹子の死、西郷頼母一族の自刃など数多くの悲劇の末、会津藩は降伏しました。

 

しかし、その戦後処理は過酷を極めました。そこには、長州の会津に対する報復感情もあったと言われています。

その戦後処理にあたっていた会津藩重臣・秋月悌二郎の許に一通の書状が届きました。

差出人は、なんと長州藩士・奥平謙輔でした。

悌二郎はかつて会津藩公用方(今でいう外交官)を勤めていたので、各藩に知り合いや友人のいる名士でした。

謙輔も悌二郎の友人の一人でした。謙輔からの手紙には、会津藩の戦いの姿勢を賞賛し、現在の会津の境遇に心を痛めていることが綴られていました。

長州藩士の中で、写真の奥平謙輔や前原一誠らは、会津藩に同情的でした

悌二郎は、この友人の謙輔に思いきった頼みごとをしています。

それは、会津の若い子弟を謙輔に預けるので学問を与える機会をつくってほしいというものでした。

当時の会津では学問どころではありません、生きていくだけでもやっとという有様でした。

このままでは、会津から人材が育たない、そうなっては会津が本当に死んでしまうという悌二郎の危機感がありました。

 

この悌二郎の頼みを謙輔は聞き入れました。

この悌二郎の頼みを謙輔は聞き入れ、若い子弟の2人を、自分の書生として招き、日本の変化を間近で見るきっかけを与えました。

このうちの一人こそが、白虎隊士として戦った山川健次郎でした。

後に東大総長にまでなった山川健次郎

その後、健次郎はアメリカに渡って物理学を研究し、後に東大総長になっています。

また、学問の一方で会津の名誉回復に努めたことでも知られています。

しかし、この健次郎の出世の道を開いたのが、長州藩士・奥平謙輔だったことはあまり知られていません。

 

知られていない絆

奥平謙輔写真後列左と会津藩士・永岡久茂(後列右)が写っています

この奥平謙輔が写っている写真があるのですが、この写真には会津藩士・永岡久茂も一緒に写っています。

どのようね経緯で写された写真なのかは不明ですが、決して会津を辱めるわけではないというのはわかると思います。

この謙輔と会津藩士たちの絆は確かだったようで、謙輔はのちに不平士族たちの反乱の1つである萩の乱の首謀者として、長州藩士の前原一誠らとともに処刑されるのですが、実はこの萩の乱に呼応して、江戸でも不平士族が反乱を起こそうとして未遂に終わった事件がありました。

思案橋事件というこの事件の首謀者こそが、会津藩士だった永岡久茂でした。

 

未遂であったということで、あまり知られてはいませんが、これも会津と長州の絆が確かにあったことを知らせる事例の1つです。

現在は、過去の延長線上にありますが、人間はいつまでも過去に囚われているほど愚かではないと私は思っています。

会津と長州の絆が、過去は細くなってしまっていたとしても、今後は太くしっかりとしたものになることを願っています。

(筆者・黒武者 因幡)

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