5分で津田梅子について!超美人でおてんばアメリカ人エピソードって?

津田梅子(つだうめこ)といえば、教育者ですね。

6歳でアメリカに旅立ったり、津田塾大学の創立者だったりと、すごい女性です。

今回、津田梅子のかんたんな経歴超美人でおてんばアメリカ人エピソードって?について、紹介していきますよ。

 

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津田梅子、プロフィール

名前:津田 梅子(つだ うめこ)
出身地:江戸 牛込南御徒町(現:東京都新宿区南町)
生誕:1864年12月31日
死没:1929年8月16日
享年:64歳(脳出血)
時代:江戸時代から昭和時代

 

かんたんな経歴、何した人?どんな人?

1864年、津田梅子(つだうめこ)は、江戸に幕臣(将軍直属の家臣)の、父・津田仙と母・初子の次女として生まれました。

江戸幕府崩壊後、北海道開拓使となった父・仙は、開拓使次官の黒田清隆が計画した女子留学生に梅子を応募しました。

当時黒田は、新国家を創るために、女性の教育指導者育成の重要性を感じていたのです。

 

1871年、6歳の梅子は岩倉使節団の留学生としてアメリカへ行きます。

5人いる女子留学生の中で最年少でした。

アメリカ到着後は、ワシントン郊外のジョージタウンに住む、日本弁務官(現在の日本大使館のような役割)書記の、チャールズ・ランマン夫妻に預けられます。

梅子は、現地の学校に通い青春時代を過ごし、1873年にはキリスト教洗礼を受けました。

 

1878年、初等・中等教育を卒業したあとは、私立の女学校へ進学し、ラテン語やフランス語などの語学を学びました。

その他にも、自然科学や心理学、そして芸術まで幅広く学びました。

 

1881年、明治政府から帰国命令が出ますが、在学中であることを理由に延長し、1882年に帰国しました。

様々な教養を身に付けた梅子は、女性のための学校を創ることが目標でした。

しかし、さっそく大きなカルチャーショックを味わいます。

女性が就ける仕事が少ないうえに、結婚か仕事かを迫られるような日本の社会にうんざりしたのです。

それだけではありませんでした。

梅子は10年という留学生活を送り日本語を話せなくなってしまったのです。

途方に暮れた梅子でしたが、1883年外務大臣の井上馨が主催するパーティーで、かつて岩倉使節団で一緒だった伊藤博文と再会し、教育者としての1歩を踏み出すこととなったのです。

 

そして、私塾・桃夭女塾(とうようじょじゅく)を開いていた下田歌子(しもだうたこ)を紹介されます。

まずは博文の通訳として伊藤家に住み込みで働き、また桃夭女塾でも英語教師として働きながら、歌子から日本語を教えてもらう生活をつづけました。

 

1885年、伊藤博文の推薦を受け、華族女学校(現在の学習院女子中・高等科)の英語教師となります。

しかし、この頃から結婚か仕事かの選択を迫られた梅子は、何度となく訪れる縁談の話をきっぱり断り、1889年に再びアメリカ留学を決意したのでした。

 

1892年、日本に帰国した梅子は再び華族女学校で教師として働きます。

自宅に生徒を預かるなど、熱心な教育ぶりでした。

 

1900年、世間の女子教育の関心が高まった所で、父・仙や多くの友人に協力してもらい、現在の津田塾大学である女子英学塾を開きます。

梅子は、身分の関係のない、女子の教育向上に力を注いだのです。

これまでの女子教育は、花嫁修行が中心だったため、女子英学塾の評判はたちまち世に広まりました。

学問としての厳しい教育は、脱落者が出るほどで、梅子は鬼教師!と呼ばれました。

また梅子は、誰にも邪魔されずに独自の教育スタイルを突き進むために、最小限の資金援助に止めたため、当初の経営は難航し体調悪化を引き起こします。

 

1919年、あらゆる困難を乗り越え、経営を安定させると現役を引退し、別荘地の鎌倉で健康の回復を待ちます。

しかし、1929年に脳出血のために64歳で亡くなりました。

 

日本語が全く話せない、明るいアメリカ人だった?

らくアメリカにいた津田梅子は、日本語を忘れてしまっていました。

6歳から17歳までアメリカにいたのですから無理もないでしょう。

日本に戻った梅子は、通訳が必要なほどでした。

晩年まで、”鰻”と”柳”、”罠”と”穴”の聞き取りに、苦労したというエピソードも残っています。

 

忘れてしまったのは、言葉だけではありません。

日本での、玄関で靴を脱ぐという習慣も忘れており、しまいには靴を脱ぐのが面倒だと話すほどにアメリカの文化に馴染んでいました。

また、誰かに何か言われたら、豪快に笑い飛ばしたようです。

当時の日本女性は人前で大声で笑うようなことはなく、梅子の生活スタイルはとてもアメリカンでした。

きっと当時はものすごく変わり者だと思われていたのでしょうね。(・∀・)

 

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素晴らしいスピーチがあるって?

田梅子には、素晴らしいと評される代表的なスピーチが2つあります。

1つ目は、1898年にアメリカコロラド州のデンバーで行われた万国婦人連合大会です。

日本代表としてスピーチした梅子は、大変素晴らしいと賞賛され現地のメディアにも取り上げられました。

このスピーチで、白衣の天使と呼ばれたイギリスのナイチンゲールを訪問するチャンスを与えられたといいます。

 

2つ目は、1913年の初めて迎えた女子英学塾の卒業式での祝辞です。卒業生8名へ捧げたスピーチは、梅子らしい愛情が込められたスピーチでした。

卒業を船出に例え、学問と現実社会とのギャップを乗り越えるには、女性の本能である愛と献身だと述べ、また学んだことを無駄にしない精神が責任であるとともに、今後歩む人生の成功の秘訣が述べられています。

時や国、性別を越えても、今なお心に響く梅子のスピーチは、現代の私たちにとっても生きるヒントが詰まった内容となっています。

 

まとめ

ということで、
5分で津田梅子について!超美人でおてんばアメリカ人エピソードって?でした。

 

津田梅子をかんたんに語るポイントは、

・岩倉使節団の一員で、最年少の6歳でアメリカ留学をした

・日本人だけど、生活スタイルはアメリカンだった

・結婚か仕事かを迫られる日本社会にうんざりしていた

・スピーチは時を越えても魅力的だった

・鬼教師!と呼ばれ、津田塾大学を作った

 

最後まで読んでいただきありがとうございます^^

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