高峰譲吉を5分で!アドレナリン発見の苦労やその生涯は?

高峰譲吉(たかみねじょうきち)といえば、アドレナリンの発見をした科学者ですよね。

実験が大好きなで世界の医学をリードし、実業家としても活躍した人物です。

今回、高峰譲吉のかんたんな経歴アドレナリン発見の苦労やその生涯は?について、紹介していきますよ。

 

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高峰譲吉、プロフィール

名前:高峰譲吉(たかみねじょうきち)
出身地:越中国高岡(現・富山県高岡市)
生誕:1854年12月22日
死没:1922年7月22日
享年:67歳(腎臓炎)
時代:江戸時代~大正時代

 

かんたんな経歴、何した人?どんな人?

峰譲吉(たかみねじょうきち)は、加賀藩の医師である父・精一と、造り酒屋の娘である母・幸子の長男として、越中国高岡(現在の富山県)に生まれました。

医師だった父の影響で、幼いときから、科学や外国語などの西洋文化に触れ、勉強していました。

 

2歳で、加賀藩からの指示を受けて、長崎、京都でいろいろな勉強をしました。

16歳で、大阪にある医学校の大阪舎密(せいみ)学校に入学。

トップの成績で卒業しました。

ここで科学の面白さに気づいて、実験に夢中になった譲吉は、「もっと深く知りたい…!」と考えるようになります。

 

8歳で工部大学校へ入ります。

工部大学校は、東京大学の前身となった学校です。

そこでまたしてもトップの成績で卒業した後は、西洋の技術や文化を積極的に取り入れて、事業を展開する工部省の役人になりました。

 

そしてすぐに、イギリスのグラスゴー大学への3年間の留学を命じられます。

そこで、様々な分野に関する、世界の最先端技術を学んだのです。

帰国後は、日本を近代化へ導く組織である、農商務省の役人として働きます。

 

1884年、事務官としてアメリカのニューオリンズで開催された万国工業博覧会へ行きました。

ここで出会ったアメリカ人のキャロライン・ヒッチと恋に落ち、結婚の約束をします。

 

1886年、帰国後は専売特許局(現・特許庁)で特許制度のルール作りに取り組みます。

もう一方で、日本初の化学肥料を製造する「東京人造肥料会社(後の日産化学工業)」を創りました。

これは、イギリス留学時代に学んだ、化学肥料の製造工場を日本に紹介し、第一銀行(現・みずほ銀行)の創業者・渋沢栄一や、三井物産設立の中心人物・益田孝らがメンバーとなり実現しました。

すごい登場人物たちです。(・∀・)

 

年、肥料製造会社が順調に進み出した頃に、アメリカの酒造会社から良い知らせが舞い込みます。

以前アメリカで特許を出願していた「高峰式元麹改良法」を使用したいというものでした。

そして役人を辞めてキャロラインと結婚し、1890年にアメリカへ渡ります。

 

「高峰式元麹改良法」とは、母・幸子の実家である酒蔵からヒントを得たもので、ウイスキー醸造のときに、これまでの大麦を原料とした麦芽から、米麹に変えたものでした。

ウイスキー造りには、広大な農地と時間を必要としていましたが、麹を使えば工場内で短時間で作ることが出来るのです。

 

速アメリカに渡った譲吉は、ウイスキー工場を作りました。

しかし、ウイスキー生産を翌日に控えた夜に、工場が燃えて無くなってしまったのです。

火災の原因は、麹によるウイスキー造りになったことで、仕事を奪われた職人たちの逆恨みによる放火でした。

 

ここで、更なるトラブルが譲吉を襲います。

持病の肝臓病が悪化したのです。

半年の闘病生活を送りましたが、妻・キャロラインの熱心な看病で見事快復しました。

 

して、この闘病中に新たなひらめきがあったのです。

それは、麹のパワーを胃の消化力に活用する胃薬「タカジアスターゼ」です。

麹菌から抽出した酵素「ジアスターゼ」に、高峰の「タカ」を付けて1894年にアメリカの薬品会社パーク・デービス社から世界に向けて販売され、大人気となりました。

 

この大人気となった胃薬を発明した譲吉に、パーク・デービス社から依頼がありました。

それは、手術で使う止血剤です。

これまで米麹や麦芽に関する植物の研究がメインだったために、動物を扱った止血剤の研究には苦労しました。

 

1900年、ついに研究の成果が実り世界で初めてアドレナリンの抽出に成功したのです。

1912年、帝国学士院賞を受賞し、翌年には三共(現・第一三共)の初代社長になりました。

また、世界各国でいち早く「タカジアスターゼ」「アドレナリン」の特許を出願したことで、巨万の富を築きあげました。

 

その後は、日本初のアルミニウム製造会社の東洋アルミナムを設立し、製造に必要なエネルギーを確保するために、発電所を作りました。

その他にも黒部鉄道宇奈月温泉を作り、実業家としても大活躍。

理化学研究所の設立にも携わりました。

 

1922年、67歳で腎臓炎によりこの世を去りました。

高峰譲吉の人生は、まさに成功の人生だったのでした。

 

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アドレナリン発見には苦労した?

ドレナリンの発見は、譲吉の1番の功績といわれています。

アドレナリンは、一般人にも広く知られ強心剤や止血剤に使われているホルモン物質です。

この時、譲吉は助手の上中啓三(うえなかけいぞう)と、牛の副腎からアドレナリンを発見しました。

そして翌年に、世界で初めて固体と液体を引き離す結晶化に成功しました。

 

アドレナリンの発見は、特にヨーロッパで高く評価され、世界の医学界に革命的な衝撃を与え、研究者たちが次々とホルモンの研究を始めるほどでした。

この状況にアメリカの研究者・エイベル教授が異議を唱えたのです。

譲吉の死後にエイベルは、譲吉がアドレナリンを発見する前の1895年には羊の副腎からエピネフリンの抽出に成功していることを猛アピール。

「1900年のある秋の日に譲吉は自分の研究室を訪れて研究結果を盗んだ」

と、化学専門誌「サイエンス」に発表したのです。

 

ちなみに、エイベルが発見したエピネフリンと、譲吉が発見したアドレナリンは同じ物です。

プレゼンテーション能力が優れていた譲吉のアドレナリンが先に世界で認知されたことから、エイベルにひどく嫉妬されたのです。

その後、アメリカではエイベル教授の主張通りエピネフリンという名前を採用し、日本も従っていました。

 

しかし近年、譲吉の助手だった上中啓三の研究ノートが公開され、1900年7月21日に、ちゃんと自力でアドレナリンの結晶化が成功していたことがわかったのです。

この研究ノートのおかげで、譲吉の盗作疑惑は晴れました。

そして、2006年の4月より日本でもエピネフリンを改めアドレナリンが正式名称とされました。

 

まとめ

ということで、
高峰譲吉を5分で!アドレナリン発見の苦労やその生涯は?でした。

 

高峰譲吉をかんたんに語るポイントは、

・小さい頃から実験と研究が大好きだった

・「タカジアスターゼ」と「アドレナリン」を発見した。

・助手・上中啓三の研究ノートによって日本でも「アドレナリン」と呼ばれるようになった

・第一三共(株)の初代社長だった

・特許ビジネスで巨万の富を築いた

 

最後まで読んでいただきありがとうございます^^

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