千利休ってどんな人物?5分で知る偉人!

千利休(せんのりきゅう)といえば、なんとなく“お茶”のイメージが強いかと思います。

確かに茶の道も極めた凄い人ですが政治力も凄まじく、あの信長や秀吉も唸らせるほどだったとか。

今回は千利休について、偉業やかっこ良すぎるエピソードをカンタンにわかりやすく紹介していきますよ。

 

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千利休、プロフィール

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名前:千利休(元の名は宗易(そうえき))
幼名:田中与四郎
出生地:大阪,堺市
生誕:1522年(大永2年)
死没:1591年4月21日(天正19年2月28日)
死因:切腹
時代:室町時代(戦国時代)-安土桃山時代

商人、茶人

 

名前ですが、「千利休」というのは天皇から与えられた名前で、歳をとってから使われました。

利休が活躍していた時、若い時は宗易(そうえき)という名前でした。

 

 

千利休の偉業

言わずと知れた茶人で、信長や秀吉に仕えたことでも有名です。

その時点で立派な偉業なのですが、彼は相当凄い人物だったのです。

これは、彼のエピソードからもわかるのですが、まずはその偉業から紹介していきますよ。

 

1,“茶聖”とも言われ、その道に大きく貢献した

利休は、「侘び茶(わびちゃ)」というお茶の様式を完成させました。流派的なモノですね。

当時のお茶は、高価な茶碗や、ハデな演出でされていました。秀吉が“黄金の茶室”をつくったことは有名です。

また“闘茶”といって、茶の種類や水を当てるギャンブルまで流行りだしました。茶道の道具にも、キラキラと高価なものを使いました。

利休の「侘び茶」では、そういった高価な道具や、ハデな演出など、無駄を全て切り落とし、お茶そのものを楽しむといったもので、とても粋なお茶だったのです。

千利休が愛したお茶と、秀吉の金ピカのお茶は方向性が違ったのです。

 

 

2,信長、秀吉からも大切にされた

利休は、信長や秀吉からもとても大切にされた人です。

信長は「茶の湯」をとても大切にし、戦しか知らないような者にも茶道をススメました。これは、お茶をとおして教養をつけてほしかったからだとも言われています。

また、新しいもの好きだった信長は、茶器などの道具にもかなりこだわるほど、茶道を大切にしました。

 

秀吉の代になると、秀吉がますます「茶の湯」に力をいれたので、お茶の世界でリーダー的な役割だった利休はたいへん力を持ち、秀吉から大切にされました。

「秀吉に意見を言えるのは利休しかいない」という、史料まであるというから、よっぽど凄い人だったのでしょう。

そのように、天下人らが気にいる茶道もやりながら、信長や秀吉に気に入られながらの『侘び茶』の完成だったのです。

 

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面白い、凄いエピソード?

利休の凄い人っぷりは、実は半端ではないのですね。

肝の座った性格で、好きな偉人ランキングでは常に上位にきているほど。

ここでは、利休のかっこよすぎるエピソードを紹介していきましょう。

 

 

1,かっこよすぎる死に方

利休は後に秀吉との関係がもつれ、秀吉に切腹を命じられます。切腹を伝えに来た秀吉の使いの者たちの中には、利休の弟子もいたそうです。

伝える側も辛かったでしょう。でも切腹に決まったと伝えます。

「利休様、あなたは切腹を命じられました」

その命を聞いた利休は、静かに口を開きました。

「お茶の支度ができております」

利休は、使いの者たちにお茶をだし、一息ついてから切腹したのです。死に直面しても、おもてなしを忘れず、自分の生き様を全うしたのです。

 

 

2,信長に文句をいった?

信長が大きな軍艦をつくった時のこと。

はしゃぐ信長は家臣たちに「どうだ?すごいだろ?かっこいいだろ?」と聞きまわります。

家臣たちは、下手なことを言ったら殺されてしまうと知っています。それにその軍艦はたしかに凄いので、信長に合わせていました。

 

そこで利休はグッと前に出て言いました。「いまいちですね」

それはもう、その場にいた人たち皆、(あぁ終わった・・・)と思ったでしょう。

信長は「何がいまいちなんだ?」と利休に凄みます。

すると、「色がいまいちですね。全部黒くお塗りなさい。」

それを聞いた信長は「採用!」といい、本当にすべて黒く塗り、インパクト大の軍艦ができたのです。

当時、信長に意見するなんて、本気でありえない事でしょうから、利休の凄さが伝わります。

 

 

3,かっこよすぎる風流センス

ある日、庭の落ち葉を掃除していた利休。

全部きれいに庭の掃除を終えたところで、庭に葉っぱをパラパラまいたといいます。

その様子をみていた弟子は、「せっかくはいたのにどうしてですか?」と聞くと、

「秋の庭には、少しくらい葉っぱが落ちている方が自然でよい」と答えたのだそうです。

 

 

4,かっこよすぎる風流のセンス2

利休に「朝顔が美しいので茶会に来ませんか」といわれた秀吉。秀吉は、それはもう楽しみでウキウキしていました。

しかし、茶室へむかうと庭の朝顔は全て切り落とされていたのです。

「どういうことだ」とがっかりしながら、秀吉は茶室に入りました。

 

すると、暗く狭い茶室に、一本の光の筋スーッとが差し込むその先に、一輪の朝顔が生けてありました。

利休は「一輪であるが故のこの美しさ。それ以外は全て摘んでおきました。」と言いました。

秀吉はこの涼やかさに驚き、利休の美学に脱帽したといいます。

 

 

5,秀吉もお辞儀して入った?

利休がつくった茶室で”待庵”という小さな茶室があります。

そこは小さくならないと入れない間口があり、入るためにかがむことが必要になります。もちろん、入るのが精いっぱいなのでほかに持ちこめるものもありません。

その意図は、地位の高い人も低い人も、この「茶室の中ではみな平等」というもの。秀吉もこれに従ったそうです。

 

 

6,「娘さんをぜひ我妻に」と申し出て断られた秀吉

秀吉は自分の妻に利休の娘をのぞむほど、彼を高く評価していたと言われます。

しかし利休は頑固者なのか、それを断ってしまいます。

自分の信じる道に自信をもっていた宗易、秀吉のおかげで出世できた部分はありますが、それを断れるほどの器量はさすがです。

 

 

まとめ

千利休について、偉業やエピソードを紹介しました。

「茶聖」といわれる利休ですが、その政治力や発言も信長や秀吉をも唸らせるほどだったのですね。本当に粋で風流な男だったのです。

後に、秀吉と政治面でぶつかり、謝れば許そうと思っていた秀吉ですが、それも利休は頑固に謝らず、切腹を命じられます。

これも秀吉は天下人としての処置。きっと本当は悲しい思いだったのではないでしょうか。

 

 

 

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