5分で清少納言について!枕草子ってなに?紫式部との関係は?

清少納言(せいしょうなごん)と言えば、歴史と国語の教科書に登場する「春はあけぼの」で有名な枕草子の作者であり、百人一首62番目の歌人としても活躍しています。

今回、清少納言のかんたんな経歴枕草子ってなに?について、同じ女流歌人である紫式部との関係について、紹介していきますよ。

 

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清少納言、プロフィール

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名前: 清少納言(せいしょうなごん)
本名:清原諾子(きよはらのなぎこ)
出身地:不明
生誕:966年頃
死没:1025年頃
享年:59歳(死因不明)
時代:平安時代

 

かんたんな経歴、何した人、どんな人?

少納言は、966年頃に生まれました。

清少納言とは、本名ではなく働く上でのペンネームや芸名のような名前です。

当時は身分の高い女性でない限り本名を公開することはなく、清少納言もその一人で、本名は清原諾子(きよはらのなぎこ)という名前だったようです。

 

親は歌人である清原 元輔(きよはら の もとすけ)、そして祖父も同じく歌人である清原深養父(きよはらのふかやぶ)というインテリ一家に生まれました。

その恵まれた家庭環境の中で、幼き頃より和歌や漢字の英才教育を受けその才能を磨き上げていたのでした。

 

お年頃になった15歳の頃に、橘 則光(たちばな の のりみつ)に嫁ぎ、のちに歌人となる橘 則長(たちばな の のりなが)を生みますが、性格の不一致により10年で離婚します。

その後すぐに、藤原 棟世(ふじわら の むねよ)に嫁ぎ、また後に女流作家となる上東門院小馬命婦(じょうとうもんいんこまのみょうぶ)を生みます。

 

少納言が27歳の頃に、関白の藤原道隆(ふじわらのみちたか)から、一条天皇の奥さんである藤原定子(ふじわらのていし)の教育係としてオファーを受け以後天皇家の定子の元で働くことになりました。

定子の教育係として活躍するも、定子が難産のためにこの世を去ると、夫の元で暮らしました。

 

 

紫式部との関係は?

少納言と紫式部はどんな関係だったのでしょうか?

清少納言は一条天皇の1番目の奥さんである藤原定子(ふじわらのていし)の元で働いていました。

紫式部は一条天皇の2番目の奥さんである藤原 彰子(ふじわらのしょうし)の元で、働いていました。

同じ女流作家であり、同じ一条天皇の奥さんの元で働いていた二人ですから、お互いがライバル視していたように思われがちですが、当時は面識がなく、天皇家で働き始めたのも文学作品を書き始めたのも清少納言が先のようです。

 

少納言は紫式部本人に対しては何も残していませんが、紫式部の夫である藤原 宣孝(ふじわらののぶたか)の衣装がド派手であると、枕草子に書いています。

これに対し紫式部は紫式部日記の中で、清少納言の事を、漢字を間違える人間は将来ロクなことがないと反撃しています。

直接対決こそなかったものの、互いに自身の作品を通して相手にツッコミを入れている感覚は作家ならではと思われます。

 

少納言と紫式部はなんだかおもしろい関係だったのですね。

こちらの記事で、紫式部について、かんたんにわかり易く紹介しています。

>>>紫式部の源氏物語って何?5分で知る偉人!

 

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枕草子ってなに?

「春はあけぼの」で有名な枕草子は、日本三大随筆や世界初の随筆と称され高い評価を得ています。

随筆とは、作者目線の思想や感想を綴ったエッセイのようなものです。

 

枕草子の内容は主に2つあります。

1つ目の日常生活や身の回りの事には、「春はあけぼの」の通り、好みの季節から流行のファッション、イケメン貴族の振る舞いや色恋沙汰に至るまでを書いています。

2つ目は、一条天皇(いちじょうてんのう)の奥さんである、藤原定子(ふじわらのていし)のことを中心に、宮中での雅な様子と定子との思い出話が美しく細やかに書かれています。

 

それまでは漢字のみの文学でしたが、清少納言は平仮名も使い国風文化のポイントとも言える枕草子を書き、平仮名文字の発展に貢献した人物の一人です。

 

 

まとめ

ということで、
5分で清少納言について!枕草子ってなに?紫式部との関係は?でした。

 

清少納言をかんたんに語るには

・インテリ文学一家に生まれ、天皇家の家庭教師だった
・国風文化のポイントである平仮名文字を使った枕草子の作者
・紫式部との直接対決はなく、お互いの文学作品を通して批判していた

 

最後まで読んでいただきありがとうございます^^

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