佐藤栄作ってどんな人物?ノーベル平和賞の授賞理由について

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佐藤栄作(さとうえいさく)といえば、政治家で元の内閣総理大臣ですね。

ノーベル平和賞についてや、兄の岸信介と並べて語り継がれています。

今回、佐藤栄作のかんたんな経歴ノーベル平和賞の授賞理由について、紹介していきますよ。

 

佐藤栄作、プロフィール

名前:佐藤栄作(さとうえいさく)
出身地:山口県 熊毛郡田布施町
生誕:1901年3月27日
死没:1975年6月3日
享年:74歳
時代:明治時代-昭和時代

 

かんたんな経歴、何した人?どんな人?

藤栄作は、現在の山口県熊毛郡田布施町に、3男として生まれました。

家は酒造業を営んでいて、地元では有名でした。

 

学校に入学するころには、たくましい少年へと育っていました。

小鳥を追ったり、鰻取りをしたりと、まさに自然を愛していました。

色が黒かったため、「ごぼう」というあだ名がついていたといいます。

また、佐藤家のお坊ちゃんとして一目置かれていて、「栄だんさま(旦那)」と呼ばれました。

 

校受験のときに、あの元内閣総理大臣・池田勇人と同じ宿に泊まり合わせています。

受験が終わると、佐藤と池田は仲間たちと酒を飲み、大騒ぎしていたといいます。

この受験は見事合格しましたが、不合格なら南米へ行こうと考えていたそうです。

その後、20歳ごろの1921年4月。東京帝国大学法学部法律学科(独法)に入学。

このころ佐藤は、めちゃくちゃ勉強したのだそうです。

 

活は順調でした。

高等文官試験(高級な官僚の試験)にはあっさりと合格。

そしてコネもあった鉄道省で仕事をすることになりました。

 

官僚をしながら、しばらくして結婚しました。

相手は、もともと許嫁だった従妹(いとこ)の寛子です。

 

事については、革新的な官僚だと有名だった兄に比べると、苦労人でした。

地方勤務が長かったり、左遷を経験したりしているのです。

海外留学では、アメリカ、カナダ、メキシコ、イギリス、スイス、ドイツ、フランス、イタリアなど幅広いです。

 

鉄道省監督局の監督局長となったり、キャリアを順調に積み重ねていったと思いきや、大阪鉄道局長に転任します。

これは、地方局としては最高の位でも、本省の局長からしてみれば「左遷」なのです。

左遷の理由は、立場的に、大日本帝国陸軍と対立してしまったためという説があります。

 

7歳ころの1948年、退官して民主自由党に入党します。

吉田茂とは遠い親戚で、昔から知り合いでした。

そのツテで、第2次吉田内閣で非議員ながら内閣官房長官として入閣。

池田勇人と2人で「吉田学校」の代表格となります。

 

その後は、続く池田内閣でも要職を務めたりしました。

政治界には欠かせない人となっていきます。

 

がて池田勇人とも意見が対立。

池田、佐藤と藤山愛一郎の選挙戦は、まさに激戦でした。

結果は、池田がわずかの票差で辛勝。

しかし池田はすぐに病気でダウンしてしまいました。

そして緊急会議が開かれて、佐藤は内閣総理大臣に任命されたのでした。

 

業としては、沖縄返還が有名ですね。

戦争でアメリカの土地になってしまった沖縄を、日本に返還させたのです。

また、核兵器について「持たず、作らず、持ち込ませず」の、非核三原則を表明したのは佐藤総理大臣です。

「敬老の日」「体育の日」「建国記念の日」をつくったのも佐藤です。

 

在任中の支持率は、実は決して高くなかったのだといいます。

理由は、「待ちの政治」といわれるように華がなかったからだといわれています。

しかし、無難にこなしていき、本格な苦況になることもなく、日本史上でも稀な、長期連続政権を達成しています。

 

1歳ころ、1972年7月6日に内閣総辞職し、田中角栄に政権を引き渡しました。

引退後の1974年に、ノーベル平和賞を受賞。

これは、「非核三原則の制定」が評価されてのことでした。

 

去は、1975年6月3日。

築地の料亭「新喜楽」で、政財界人らとの会食でした。

途中、トイレにたった佐藤は、そのまま崩れるように倒れ、そのままいびきをかき始めたといいます。

現代ではすぐ救急車をよぶものですが、当時はそうではなかったのです。

駆けつけた大学の医者も、家族もだれも病院に運ぼうとはしませんでした。

倒れた原因は脳溢血でした。

 

その後4日間、料亭「新喜楽」で様子をみたあと、病院に運ばれました。

しかし1度も起きることなく、6月3日にこの世を去りました。

享年74歳でした。

 

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性格が超あらっぽい?

ですが、実は荒っぽい感じでもあったようです。

「待ちの政治」とは言われていましたが、元々はじっと待つのは大の苦手だったそうです。

癇癪もちだったのもあり、怒るとまず手が出たといいます。

手が出るといっても、人を殴るとかではなく、まずは机を叩いたり、物にあたったりしていたそう。

ちょっと紹介してみます。

 

目下に厳しい

自分より目下の人間には、それなりに礼節を求めました。

ある役人が、皇太子の御用を、高圧的な態度で申してきたところ、「無礼じゃないか!おれは総理大臣だぞ!」と怒鳴りつけたことがあるといいます。

 

妻を殴る

ある週刊誌の対談で、寛子夫人が、

「若い頃主人に殴られたことがある」

と言ったことがあるといいます。

するとアメリカ訪問の時、アメリカの雑誌に「ワイフ・ビーター(妻を殴る男)」を紹介されたことがあるのです。

 

恐いお父さんだった

佐藤栄作の長男・龍太郎が、父の恐ろしさを語ったことがあります。

「『待ちの政治家』とか言われましたが本来は短気なんです。

我慢強くなったのは政治家になってからのことで、僕らの知っている父は短気なところが恐ろしかった。

カーッとなるとお膳をひっくり返す。おふくろの鏡台を叩き割る。

買ったばかりの火鉢を庭に放り投げて壊してしまう。

幼いころからそんな光景をよくみました…」

小さい子はビクビクしてしまったかもしれませんね。

 

兄の岸信介とは全然ちがう

できの良い兄・岸信介と、比べられる事がよくありました。

政治家の三木武吉いわく、

「佐藤とキミは兄弟だと言うけれどちがうなぁ。

キミの弟ではあるが、なかなかたいした奴だ。

気に食わんとなると寝転びやがって口をきかないんだ。

キミは、とにかく反対なら反対のようにちゃんと言うてくれるからいい。

けれどもあいつは、いざとなるとゴロッと寝ちゃって何も口をきかない」

といっています。

 

石原慎太郎いわく、

「兄は人にモテて話が上手い。そんなとても魅力的な兄を、佐藤栄作は羨ましがっているようにみえた」

といっています。

 

田中龍夫いわく、

「岸さんと佐藤さんはえらく違うよ。

佐藤さんは情報をよくとるし、八方心くばりをしていて、コワい感じがした。

話していても秋霜烈日として、ひとこと間違うとビンタがとんでくるのではないかと思うほどだ。

ところが岸さんとなると話していても実になごやかで楽しくなるね」

といっています。

 

そんな荒っぽそうな佐藤栄作ですが、面倒見のよい部分があったそうで、慕われてはいたようです。

 

マスコミ嫌い

総理大臣をやめるときの会見が特に有名です。

佐藤は会見が始まる前に、

「テレビカメラはどこかね。新聞記者の諸君とは話さないことにしてるんだ。

僕は国民に直接話したい。

新聞の文字になると意味が(真意が)違うからね。

偏向的な新聞は嫌いなんだ。大嫌いなんだ。直接国民に話したい。」

のように言い放ちました。

 

やっぱり新聞記者たちは怒り、揉めました。

記者たちはついに、「じゃあ出ていきましょうか!出よう出よう!」といい会場から全員出ていってしまいました。

そして誰もいなくてガランとした会場で、カメラに向かってひとりで話しだしたのでした。

 

その日の朝日新聞の夕刊には、

「ガランとした首相官邸の会見室で、首相はモノいわぬ機械に向かって一人でしゃべっていた」

と書いてありました。

日本中にまわる新聞で、総理大臣を「一人でしゃべっていた」などと書くのは、まさに前代未聞でした。

 

まとめ

ということで、
佐藤栄作ってどんな人物?ノーベル平和賞の授賞理由についてでした。

 

・ノーベル平和賞受賞の理由は、「非核三原則の制定」が評価されてのことだった!

・兄・岸信介と、よく比較されていた!

・マスコミが嫌いだった!

 

最後まで読んでいただきありがとうございます^^

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