5分で西園寺公望について!立命館大学の創立者ではない?

西園寺公望(さいおんじきんもち)といえば、政治家で、内閣総理大臣ですね。

政界の中心的な立場で、幕末から昭和へと近代国家にいたるまでの日本を支え、最後の元老となったすごい人です。

今回、西園寺公望のかんたんな経歴立命館大学の創立者ではない?について、紹介していきますよ。

 

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西園寺公望、プロフィール

名前:西園寺 公望(さいおんじ きんもち)
出身地:山城国京都(現・京都府京都市)
生誕:1849年12月6日
死没:1940年11月24日
享年:90歳(腎盂炎)
時代:江戸時代-明治時代-大正時代-昭和時代

 

かんたんな経歴、何した人?どんな人?

西園寺公望(さいおんじきんもち)は、現在の京都である山城国(やましろのくに)のリッチな公家・徳大寺家の次男として生まれました。

幼名は美丸(よしまる)で、父は徳大寺公純(とくだいじ きんいと)母は末弘斐子です。

この家は、第113代東山天皇の血を引く筋の家系であったために、歳の近い明治天皇とは小さい頃からよく遊んでいました。

 

歳で、同じくリッチな公家・西園寺の養子となります。

が、養父・ 師季(もろすえ)が亡くなったために、西園寺家の家督を継ぎ、実父・徳大寺公純の影響を受けて成長します。

少年期は、孝明天皇が作った学習院に通いました。

ほかにも、蘭学や剣術、そして福澤諭吉の書いた「西洋事情」を熱心に読み、欧米の近代化されたトレンドを学び興味を持ちました。

 

1歳で、後の明治天皇となる、祐宮(さちのみや)親王の側近として活躍します。

ここで同じく側近の岩倉具視(いわくらともみ)らと仲良くなりました。

 

18歳、1867年に祐宮親王が明治天皇として即位すると、岩倉具視のバックアップを受けて主要役人の参与に任命され、出世コースを歩み始めます。

翌年の戊辰戦争では、リーダーとして各地に行き、最前線で戦い、明治新政府軍を勝利へと導きました。

 

1868年に明治維新を迎えると、越後府(現・新潟県)の知事になります。

が、その生活に少し不満を抱いていました。

戊辰戦争で数々の功績をあげた公望は、軍人として更なる活躍を目指していたからです。

そのためのフランス留学も望んでいました。

欧米に強い憧れを抱いていた公望は、翌年に新潟から東京に戻ると、公家の中で真っ先に和服を脱ぎ捨てました。

そして欧米の「洋服」を着たのです。

 

フランス留学のためにフランス語と法律を学びます。

またこの頃、独自の教育理念のもとに「立命館」を創りました。

 

2歳、ようやく念願のフランス留学が叶います。

パリ・ソルボンヌ大学で、文化や思想、そして自由主義を学び、日本人初の学士となりました。

フランス日本公使館のスタッフというポジションも持ちながら、同じく留学生の思想家・中江兆民(なかえちょうみん)らとも親交を深めます。

また和歌をフランス語に翻訳したり、文化政治の面でも活躍しました。

 

そして忙しい日々を送りながらも、充実した10年を過ごします。パリ女性にモテモテだったそうですよ。

帰国直後は、政治家・松田正久(まつだまさひさ)のオファーを受けて、東洋自由新聞社の社長に就任し、自由民権運動へ参加しました。

 

が、公家出身で、しかも参与であった公望が、自由主義を掲げて政治活動することに政府役人らのクレームが相次ぎます。

結局は、明治天皇直々の命令を受けて、社長を退任しました。

 

3歳、公望はもういちど、政治の表舞台に戻りました。

参事院議官補として、伊藤博文(いとうひろぶみ)率いるヨーロッパ憲法調査団のメンバーに選ばれ、ヨーロッパに旅立ちました。

参事院とは、国会開設のために伊藤博文が創った政府機関です。

 

翌年帰国し、今度は参事院議官に任命され、ハンガリー公使、そしてドイツ公使を歴任します。

ちょうどこの頃、ヨーロッパ滞在中だった陸奥宗光(むつむねみつ)とタッグを組み、伊藤博文の右腕として、政界での存在感を確実なものへと築き上げます。

 

5歳、伊藤博文率いる第2次内閣の文部大臣に就任します。

すると、日本を近代化させるために、女子教育の在り方や、個人よりも家をメインに考える家制度を否定します。

これも、日本を国際化に向けた思想を広めるためでした。

 

7歳、1906年に内閣総理大臣になります。

鉄道の国有化や日露協商、日仏協商、日韓協約を、次々と締結していきます。

 

62歳、1911年の第2次西園寺内閣では、軍事予算を抑えたい公望の考えと、陸軍幹部の意見が対立し、辞職へと追い込まれます。

そして明治天皇が亡くなり、大正天皇が即位すると公望は「元老」として政治を行いました。

元老とは、皇室認定の国家重要機密に関わる、高い役職の政治家です。

ちなみに、彼が総理大臣を務めた期間は、桂太郎(かつらたろう)と交互に総理大臣を務めたことから、桂園(けいえん)時代と呼ばれています。

 

1919年の第1次世界大戦の戦後処理である「パリ講和会議」に、一番の権力を持つ首席全権大使として出席したのが公望でした。

年老いて病気がちでしたが、第1次世界大戦に勝利した日本の国際的地位を高めることに成功しています。

晩年は、静岡県の坐漁荘(ざぎょそう)の別邸から、日本の政治を見守り、憲法の元に政治が行われる立憲政治の姿勢を取り続けます。

 

1940年、日本の軍事力が高まる危機感の中で、天国へと旅立ちました。90歳でした。

最期に、「いったいどこへこの国をもって行くのや、こちは・・・」と、声を絞り出したといいます。

これまでの偉大な功績が称えられ、日比谷公園での国葬では多くの国民が悲しみにくれました。

また公望以降に元老に指名された人物が居なかったことから、公望は最後の元老となりました。

 

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立命館大学の創立者ではない?

西園寺公望は立命館大学の創立者ではないの?について。

これは創立者ではないのですが、微妙なところ。

立命館大学の元祖ではあるけれど、創立者ではないのです。

ちょっと紹介してみましょう。

 

西園寺公望は、1869年に「大いに勤王(きんおう)家を養成するという抱負」をテーマにに私塾・立命館を開きました。

勤王とは、天皇に忠義を尽くす思想です。

江馬天江(えまてんこう)ら朱子学者や儒学者たちが、当時最先端の学問を教える先生としえ迎えられ、全国から塾生が集まるほどの高い人気となりました。

 

あまりの人気ぶりに危機感を募らせた京都府庁が、革命思想を教える場と勘違いし、廃校命令を出します。

公望は、フランス留学のために長崎に居たために、その人気ぶりを自身の目で確かめることなく、しぶしぶ廃校を受け入れざるを得ませんでした。

 

その公望の思想を引き継いだのが、秘書の中川小十郎(なかがわこじゅうろう)でした。

中川によって1900年に京都法政学校が作られ、1919年に「立命館大学」と改称されました。

こんな感じで、公望は立命館大学の創立者ではないものの、学祖として崇められ、立命館大学の大扁額「立命館」は、西園寺の自筆となっています。

 

まとめ

ということで、
5分で西園寺公望について!立命館大学の創立者ではない?でした。

 

西園寺公望をかんたんに語るポイントは、

・公家出身だけど、自由主義を学び日本に近代化に貢献した

・最後の元老として、日本の政治を見守った

・立命館大学の学祖だった

 

最後まで読んでいただきありがとうございます^^

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