大友宗麟を5分で!キリスト教の洗礼を受け、洗礼名は?

大友宗麟(おおともそうりん)といえば、大友氏の第21代当主で、キリシタン大名として知られていますね。

しかしなにより、自領を没落へと導いてしまった残念な戦国武将としての方が有名な気がします。

今回、大友宗麟のかんたんな経歴キリスト教の洗礼を受けた際の洗礼名について、紹介していきますよ。

 

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大友宗麟、プロフィール

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大友義鎮(おおともよししげ)
大友宗麟(おおともそうりん・法号)
出身地:豊後国府内(現・大分県内)
生誕:1530年1月3日
死没:1587年5月6日享年:58歳(腸チフスによる病死)
時代:室町時代(戦国時代)‐安土桃山時代

 

かんたんな経歴、何した人?どんな人?

友宗麟は、大友家20代当主・大友義鑑の息子です。

1550年、父・義鑑は、第21代目当主を誰にゆずろうかと悩んでいました。

父は、粗暴で人望の薄い病弱な長男・宗麟よりも、3男・塩市丸を溺愛していたため、塩市丸にどうしても家督を譲りたかったのです。

そのため、入田親誠と共同謀議で、宗麟派の家臣たちを次々に殺害してゆきます。

 

父の暴挙に身の危険を感じた宗麟派の家臣たちは遂に反撃に出ます。

そして、父・義鑑の居城を襲撃。

2階にいた3男の塩市丸とその母を殺害し、父・義鑑にも瀕死の重傷を負わせ、2日後に亡くなりました。

この結果、21歳の大友宗麟が大友家の家督を相続し、第21代当主となりました。

 

麟の活躍っぷりは凄まじく、優れたコミュ力と頭の良さは、まさに才能でした。

家臣もみんな超優秀で、豊後・豊前・筑後・筑前(九州地方)へと徐々に勢力を拡大してゆき、大友家は九州で1番の勢力を誇るまでになったのです。

 

そして、1554年には復権を目論んでいた叔父の菊池義武の反乱を抑制し、同年には菊池氏を滅亡させて肥後(現・熊本県)も確保しています。

足利義輝(将軍)に対して多額の献金を行い、その結果、筑前国・豊前国(九州地方)の守護に命ぜられました。

これらにより、大友宗麟は大友家の全盛期を作り上げることに成功しました。

 

また、日本初の病院が豊後(大分県)に建てられると、身分や貧富問わず、無料で診療したりしました。

育児院や学校なども開講し、日本における西洋音楽と演劇の基盤を築いたとされています。

 

すが、大友宗麟の大躍進はここまででした。

宗麟は、あのフランシスコ・ザビエルら宣教師たちのキリスト教布教活動を許してしまったことから、大友家の中では宗教対立が勃発するようになります。

宗麟がキリシタンに好意を示したのは、世界との貿易を行うためでした。

実際に、南蛮船の貿易港を用意し、フィリピンなどの外国への貿易船を派遣するなどの成果を挙げています。

 

宗麟が海外との貿易を積極的に行っていたあいだ、中国地方では毛利元就(もうりもとなり)が勢力を伸ばしていました。

ついには、宗麟の弟・大内義長に攻め込み、自害へ追いやると、大内氏は滅亡。

大友氏の周防方面(山口県方面)への影響力は完全に失われてしまいます。

 

そして、毛利軍は北九州にまで勢力を伸ばし、大友宗麟と対立することとなります。

1562年に「門司城の戦い」にて毛利元就に敗れます。

すると、同年に出家し、そこで休庵宗麟と号します。

 

休庵宗麟と号した後も、足利将軍家に多額の献金を続けると、ついに足利義輝の相伴衆(幕府の役職のひとつ)に任命され、1564年には足利氏が仲介に入り、毛利家との和睦調停を実現させました。

しかし、毛利元就は山陰地方(鳥取・島根あたり)を支配する尼子家を滅ぼすと、再度北九州への侵攻をはじめ、和睦が破棄されてしまったのです。

宗麟は自ら軍を率いて戦にのぞむものの、筑前国まで侵攻してきた毛利元就によって撤退させられました。

 

1578年には、「耳川の戦い」で島津軍に大敗し、多くの重臣を失ってしまいます。

さらに翌年には蒲池氏・草野氏・黒木氏などの勢力が大友家から離れていきます。

家督を譲った大友義統とも仲が悪くなったりと、大友家は徐々に衰退して行くこととなります。

 

うしても大友家の衰退を阻止したかった宗麟。

当時最も力のあった織田信長に接近し、島津氏との和睦を取り合ってもらうように頼みこみました。

しかし、明智光秀の謀反、「本能寺の変」によって織田信長が死去してしまったため、失敗に終わりました。

 

次は、力を付けてきた豊臣秀吉に接近。

豊臣秀吉の傘下に加わる代わりに、軍事的な支援を要請したのです。

秀吉はこれに応じました。

 

大友家のために、豊臣軍勢10万が九州に到着し、さらに豊臣秀吉と黒田官兵衛らも10万の兵と共に九州征伐にやってきたため、島津軍を撃破することが出来たのです。

大逆転で大喜びですが、そこで宗麟は病に倒れてしまい、島津義久が降伏する直前に亡くなってしまったと言います。

その後、秀吉の命により、宗麟には日向(現・宮崎県)を与えようとしていたが、既に亡くなっていたため受け取ることが出来なかったのでした。

 

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キリスト教の洗礼を受けた?洗礼名は?

1577年に宗麟は、宣教師のフランシスコ・ガブリエラからキリスト教の洗礼を受けました。

そして「ドン・サンフランシスコ」という洗礼名(クリスチャン・ネーム)を授かり、これ以降、宗麟は自身のことをドン・フランシスコと名乗るようになったと言われています。

 

宗麟が病に倒れ、亡くなった際、キリスト教式の葬儀が行われ、お墓は私邸に設けられました。

しかし、息子の大友義統により、改めて府内にある大知寺にて仏式の葬儀がとりおこなわれ、お墓もキリスト教式ではなく仏式のものに改められてしまいました。

しかし、江戸時代に大友宗麟の家臣の末裔・臼杵城豊が自費で宗麟のお墓を改装し、キリスト教式のお墓を建設したそうです。

 

友宗麟は、キリスト教の布教活動を容認し、彼らのために教会やノシャビド(修練院)、ハンセン病患者を収容する病院を建てるなどした人物です。

また、南蛮文化の積極的な受容を行うと同時に西洋から大量の武器や弾薬を輸入し、なんと製法まで入手して自領で製造を行っていたと言われています。

宗麟の周囲には、誠実で勇敢な武将たちが集まり、優れた知略と武力によって彼を支えたのです。

とても恵まれた環境にあった宗麟は、成功者として歴史に名を残したのでした。

ちなみに、大友宗麟という名は、1559年に彼が出家した際に授かった法号「休庵宗麟」から来ているのではないかと考えられています。

 

まとめ

大友宗麟を5分で!キリスト教の洗礼を受け、洗礼名は?でした。

 

大友宗麟をかんたんに語るポイントは、

・父である大友義鑑らによって暗殺されそうになるも、家臣たちのおかげで難を逃れた

・誠実で勇敢な家臣に恵まれていたにも関わらず、大友家を破滅へと導いてしまった

・海外の文化を誰よりも早く取り入れ、大量の武器や弾薬を輸入し、戦でそれらの武器を活用していったこと

・キリスト教の洗礼を受け、”ドン・フランシスコ”という洗礼名を授かったこと

 

最後まで読んでいただきありがとうございます^^

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