安土桃山時代

毛利輝元を5分で!全く能力ナシの武将だった?関ヶ原では出陣もしない?

毛利輝元(もうりてるもと)といったらどのような人物か知っていますか?

実は、関ヶ原の戦いで西軍の総大将だった人で、毛利家を江戸時代まで盛り立てた人なのです。

しかし、現代でも「無能」のレッテルを貼られ、有名です。

今回、毛利輝元のかんたんな経歴関ヶ原では出陣せずに無能扱い?について紹介していきますよ。

 

毛利輝元、プロフィール

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毛利輝元(もうりてるもと)
出身地 広島県
生誕 1553年2月4日
死没 1625年6月2日
享年 72歳
時代 室町時代(戦国時代)-安土桃山時代-江戸時代

 

かんたんな経歴、何した人?どんな人?

利輝元は、安芸国(今の広島県)で生まれ、有名な毛利元就(もうりもとなり)の孫にあたる人物です。

輝元は、中国地方を統一しようと有名大名と戦い勝利し、毛利家の勢力を拡大しました。

対立していた織田氏との第二次木津川口の戦いで不利になり、織豊政権と和平し豊臣政権時代では秀吉より五大老に任じられました。

 

ヶ原の戦いで、石田三成から総大将に擁立された(この時家臣に相談することなく勝手に受託!)にも関わらず、毛利輝元自身は出陣しなかったのです。

西軍が負けた後、大きく罰せられました。

 

戸時代には嫡男の毛利秀就に家督を譲った後に、隠居し、家中統制に尽力しました。

そのときに彼が定めた法度は、長州藩の礎となっていることから、内政の才能はあったようです。

 




無能?有能?能力があったのかどうか。

利輝元は中国地方を収めた大名であるにも関わらず、「無能」というレッテルが貼られています。

有名な話だと祖父である元就から、軍事上の戦略を秘密裏に聞いてもすぐに他人に話してしまったそうです。

これには元就も「情けない」と手紙に残してしまいますね。

 

ヶ原の戦いでは、総大将にも関わらず戦場で戦うことすらせずに大阪城を明け渡して自分の国に帰ってしまうほどのヘタレっぷり。

挙句の果てに、二代目将軍である徳川秀忠に「毛利家はずっと将軍様にお仕えします」と平身低頭な手紙を送る始末。武士としての誇りがないのか、毛利輝元。

 

のように戦面では、どうしようもないくらい無能だった毛利輝元。無能のレッテルを貼られてもしょうがない感じです。

でも、領地のために倹約と新田開発を行って石高を上げるなど、自領を繁栄させる才能はあったようです。

人間誰にでも得手不徳手はありますからね。(・∀・)

 




関ヶ原の戦いでは出陣しなかった?

利輝元は、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将です。

それなのに、戦では出陣しなかったとのこと。どういうことなのでしょうか。

しかし実際は石田三成が陣頭指揮をとっており、毛利輝元はお飾りの総大将だったと言われています。

 

しかも関ヶ原の合戦が始まっても、毛利輝元は大阪城から兵を動かさず、自分も動かなかったのです。

西軍が東軍に敗れると、すぐに難攻不落の大阪城を自ら明け渡して自分の領地に帰って行ってしまいました。

 

しかもその時に家臣である吉川広家に、「関ヶ原の戦いで出陣していないから罰しないで」と徳川家康にお願いしてもらうなど大将とは言えないような人物なのです。

結果、毛利家は領地を削減されて、毛利輝元は現代にまで臆病、優柔不断、無能と言われてしまっているのです。

 

まとめ

謀将と言われていた毛利元就の孫なのに戦の才能は全くなかった毛利輝元。

しかし現代では、毛利輝元が出陣しなかったから関ヶ原の戦いは早期決着出来たともいわれており、無能だと言われていた毛利輝元が再評価しつつあります。

戦の才能はなくても、自国を繁栄させるために、倹約や新田開発を行うなどコツコツと地道に努力する才能はあったのです。

全ては毛利家安泰のために行動していたのかもしれません。みなさんもぜひ毛利輝元の生涯を知ってください。

 

ということで、
毛利輝元を5分で!全く能力ナシの武将だった?関ヶ原では出陣もしない?でした。

 

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