江戸時代

5分で宮崎安貞について!農業全書ってどんなもの?

宮崎安貞(みやざきやすさだ)といえば、江戸時代の農学者として、日本の農業発展に力を注ぎました。

今回、宮崎安貞のかんたんな経歴農業全書ってどんなもの?について、紹介していきますよ。

 

宮崎安貞、プロフィール

名前:宮崎安貞(みやざき やすさだ)
出身地:安芸国(現・広島県広島市)
生誕:1623年
死没:1697年9月8日
享年:75歳(死因不明)
時代:江戸時代

 

かんたんな経歴、何した人?どんな人?

1623年、宮崎安貞は安芸国(あきのくに)に、宮崎儀右衛門(宮崎ぎえもん)の二男として生まれました。

父・儀右衛門は、安芸広島藩士のエリート武士で、禄米(ろくまい)200石の山林奉行として活躍していました。

禄米とは現在のお給料のことで、200石の武士家庭は一般よりも裕福でした。

 

林奉行の仕事はとても幅広く、藩が受け持つ山林の伐採から、庶民のトラブルを回避することまで含まれていました。

その背景には、当時の日本の姿が大きく影響していたのです。

徳川家康によってもたらされた「天下泰平」の世のおとずれで、各藩ではお城をはじめとした建設ラッシュが続き、全国的に木材の需要が高まっていました。

 

林資源である木材を必要としたのは、藩だけではありませんでした。

山林には、田んぼの肥料に使う柴草、日々の食事の煮炊き、そして寒い季節の暖を取るための、必要な燃料を確保する場所でした。

また、建築用資材のほかにも、工業技術の近代化、各藩の特産物である産業発展の成長を支えるために、材料や燃料としての木材が必要でした。

そのため山林を巡り、村同士の境界争いが絶えることがなく、そのトラブルを回避したり仲をとりもつのも山林奉行の仕事だったのです。

 

して、急激な森林伐採により土砂災害などの水害が増えてきたのもこの頃です。

自然災害が増えれば、時間をかけて育てた農作物は台無しです。

また、木を切り倒すだけでは、木が無くなってしまうので、植樹を計画するのも山林奉行の役目でした。

安貞は、このような職務を執り行う山林奉行の父と共に、幼い頃から山を歩き、父の多大なる影響を受けて、人生を歩んで行くことになります。

 

かし、その父がリストラされ、武士としての職を失ってしまったのです。

と、いうのも江戸幕府は各藩が力を持つことを恐れ、武家諸法度(ぶけしょはっと)を制定しました。

この武家諸法度により、各地の大名が持つ土地を幕府の土地にしたことで、全国的にリストラされた武士が多くいたのです。

そのようなリストラ武士が増える中で、安貞は、25歳のときに父と同じ山林奉行として、福岡藩に仕えることになりました。

待遇は父と同じ200石というエリート待遇です。

 

28歳になると、福岡藩から京都での遊学(勉強)命令を受けました。

この遊学で、儒学者(じゅがくしゃ・思考、信仰の学者)の貝原益軒(かいばらえきけん)と出会います。

そこで農業の魅力に触れ、農業の勉強に情熱を注ぎ込むようになります。

 

そして30歳のときに、エリート武士の職を捨て、九州・山陽・近畿の、諸国を巡る旅に出たのです。

各地の農家の話を熱心に聞き、そして山や川の様子を絵に描く安貞の姿がありました。

旅から戻ると、福岡藩が支配・管理する知行地(ちぎょうち)で、各地で集めた情報をもとに自ら農業を始めたのです。

 

業のかたわらで、中国の農業書を読み研究する日々を過ごします。

少しでも時間を見つけては各地の農村に出掛け、農業に関する勉強を続けました。

安貞は、山林奉行の経験をもとに自然環境との調和からなる農業こそが国を支える人を作り、国家が生まれると考えていたのです。

農業を勉強し、勉強したことを農民に指導することもありました。

このような日々を40年ほど続けながら、農業に関するマニュアル「農業全書」を作り上げます。

 

そして、人生の全てを日本の農業発展に尽くした安貞は、75年の生涯に幕を閉じました。

農業全書は、明治以前の最高の農書を称され、大蔵永常(おおくらながつね)・佐藤信淵(さとうのぶひろ)らとともに江戸時代の三大農学者と呼ばれています。

 




農業全書ってどんなもの?

業全書(のうぎょうぜんしょ)とは、1697年に出版された日本最古の農業全般に関する内容をまとめた全11巻からなる書物です。

こんな感じですね。

明(現在の中国)の学者である、徐 光啓(じょ こうけい)の「農政全書」を参考にし、安貞の約40年におよぶ農業の研究成果をまとめたものでした。

安貞は、「農民が富まざれば、国富まず」のテーマを持ち、突き進みました。

江戸時代を通じて1日3食の食生活が広まり、米は主食でもあり同時に年貢米(税金)でもありました。

そして江戸時代前期は人口の増加にともない、米の生産量を増やし一定に保つ必要がありました。

 

しかし、水害や冷害などの思わぬ自然災害トラブルが発生すると、たちまち米の生産高は落ち込み、飢饉が発生します。

そして米の生産不足は命に直結した時代でした。

それを未然に防ごうとしたのが、安貞だったのです。

庶民にもわかるようにした農業完全マニュアルを完成させたのです。

 

字の読めない者にも解りやすいように絵を使ったり工夫され、田んぼの米だけでなく、畑の農作物から家畜の薬草や除草まで書かれており、充実した内容でした。

儒学者である、貝原益軒(かいばらえきけん)の協力を得て出版され、大ベストセラーとなりました。

あの水戸黄門で有名な徳川光圀(とくがわみつくに)も読み、大絶賛される内容に仕上がりました。

 

まとめ

宮崎安貞は、日本で農業に関する内容を初めて書物にまとめた人物でした。

安貞のつくった「農業全書」により、日本の農業技術は格段にアップし、度々訪れる飢饉を最小限に抑えてくれました。

明治を迎え、西洋の農学書が流通するまでの200年もの間、日本の農業技術の基礎となり発展を守り続けたのです。

日本を根底から支える農業の技術書をまとめ農民の心の支えとなった人物です。

 

ということで、
5分で宮崎安貞について!農業全書ってどんなもの?でした。

 

最後まで読んでいただきありがとうございます^^

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