石田三成を5分で!茶々との肉体関係?性格悪くて加藤清正とは不仲?

石田三成といえば、名前くらいは誰でも聞いたことがあるでしょうね。

あの「関ヶ原の戦い」の西側の主導者だったり、秀吉の重要な家臣だったり、とても凄い人です。

今回、石田三成の性格や加藤清正とは不仲説、また茶々と肉体関係があった説などを紹介していきますよ。

 

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石田三成、プロフィール

Ishida_Mitsunari

石田 三成(いしだ みつなり)
生誕:1560年
死没:1600年11月6日
享年:40歳
時代:安土桃山時代(戦国時代)

 

石田三成って何した人?どんな人?

石田三成ってそもそもどんな事をしてどんな人だったのでしょうか。

石田三成の基本を紹介していきますよ。

 

1,豊臣秀吉の重要な家臣だった

石田三成は、二男坊でしたので寺小姓として預けられます。

そこで秀吉に「お茶の出し方がいい」と気に入られ、引き取られます。幼名の佐吉は有名ですね。

 

三成は豊臣政権のもとでは軍事の後方支援、そして秀吉の内政補佐を行います。

計算ごとが凄く得意で、税金をとるための「検地の改革」も手伝っています。

また、物資の調達や和平交渉も得意としていました。

九州で、仲間が脅かされた時は派兵の準備を大阪でしています。

 

あとは、有名なのは「朝鮮出兵」です。

これは、日本を統一した豊臣秀吉が、明(中国)の征服を目指したものですね。

それで石田三成はまとめ役をして、現地に赴いています。

本当は総大将になるはずだったのですが、秀吉が死んで、引きあげています。

 

 

2,戦が上手くない?

よく戦があまりうまくないという評価を受けますが、それは忍城等守りが堅く味方の援護があまりない場合です。

秀吉が柴田勝家を倒した賤ヶ岳の戦いでは七本槍と呼ばれる武将には及ばないものの、一番槍、先鋒の誉れをとっています。非常に勇気がいることです。

どうしても自分の給与の半分、2万石もだして雇った島左近に支えられて、狸(家康)に挑むひ弱なキツネという印象にされてはいますが。

 

 

3,義理人情に熱い!

三成は、非常に義理堅く、自分のことには無欲な部分があったようです。

秀吉が三成を高く評価して、「三成にこの土地あげたい」と言った時も断っています。

また、いいと思った家臣に自分の俸禄(報酬)をあげてしまって、「こやつが養ってくれているのです」といって呆れられたりというお人でした。

 

 

4,関ヶ原の戦いの主役!

石田三成は「関ケ原の戦い」での西側の主導者ですね。

関ケ原の戦いを起こしたとして知られますが、もともとは直江兼続が、徳川家康に直江状という喧嘩を売るような手紙を書いてしまったことが発端です。

 

あと、西軍の総大将は毛利であって、石田ではありません。

これは、秀吉の家臣だった大谷吉継に「おぬしは人に横柄だと思われているから、総大将は毛利にしておけ」と言われたからだとかなんとか。

ただ、大谷吉継は家康に気に入られていたのに三成についたのです。マニアックな好かれ方をするのが三成ということでしょう。

 

家康は毛利元就亡きあとの毛利ではなく、五奉行のひとり石田三成が危険だと判断したのです。

19万石と少しという決して多くはない扶持の人間をです。

ふつうに語られるのは、西軍=石田三成、東軍=徳川家康って言われますよね。

 

 

関ケ原の戦いですが、勝ったのは徳川家康(東軍)ですね。

前半は西軍が押します。

有名な「小早川秀秋の裏切り」や「毛利の不戦」がなかったら、西が勝ってた。とかいう人がいますが、勝っても豊臣の延命はおそらく難しかったでしょう。

三成クラスの指揮官は多くいて天下を欲しがっていたのです。伊達正宗などですね。

秀吉や家康のようなカリスマは三成にはなかったのです。

 

関ヶ原の惨敗の後、逃れようとした三成は六条河原で斬首され、首をさらされます。

1600年、10月1日のことです。沢庵和尚ら僧ふたりが生前仲が良かった三成の遺骸を引き取り、手厚く葬ったといわれています。

「戦では負けることなど普通で恥ではない」と斬首される前に言って家康を感心させています。

暗殺しようとした相手から守ったのは家康でしたから。恩を売ったということはそれなりの評価をしていたのです。

 

 

茶々とはどんな関係だった?

茶々は、浅井長政とお市の方(信長の妹)との娘ですね。

茶々と三成の関係性はある意味濃いものです。

 

茶々の子である秀頼の、本当の父は石田三成説があるくらいです。

茶々と肉体関係があったかどうかですが、これはおそらくは噂どまりでしょう。史料などに記録もないし、ぽっと出の噂ですね。

実は三成は、浅井家の家臣の末です。

茶々はもろに浅井家ですから、同じ長浜で過ごしています。関わりはあったでしょう。

でも関係はその程度だと思われます。

 

三成は、当時の武将としては珍しくひとりのお嫁さまを大事にしていました。

ぶっちゃけると、秀吉と男色の関係にあったといわれた方が納得がいきます。当時の風習ですからね。

まあ、秀吉の女性好きからするとないとは思いますが。(・∀・)

 

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性格悪くて加藤清正とは不仲?

石田三成は加藤清正とは不仲だったという噂について。

三成は気質がきつく、理詰めで性格に難があったと言われています。

ので、加藤清正らと衝突したと考えることが多いようです。漫画やゲームでもよく衝突していますね。

 

石田三成に関してはこんな話があります。

秀吉はキリシタンたちの結束力を見て脅威ととらえビビります。

そこで、キリシタンたちを弾圧します。

家臣の三成は確かにこれを遂行します。

しかし、実はキリシタンを逃がせる分は逃がしていました。

秀吉を面と向かって、宥めることもありました。ノーということはノーという男です。

そういう優しさからか、出身地の長浜(滋賀県)では民衆に慕われていたのです。

 

加藤清正は古くからの知り合いですが、朝鮮出兵の時、撤退のタイミングで争うことになります。

考え方が違うのです。

清正は三成の暗殺を考えます。これは秀吉亡きあとに出てきたひずみですね。どうせなら三成も殺るか。邪魔だな、と。

豊臣秀吉は政治は素人です。最初は足軽兵だったので当然でしょう。

加藤清正は、なぜ秀吉が三成を大事にしたのか理解していなかったのです。

 

まあ、三成自身、秀吉の失敗をすべて引き受けてしまう、異様に慎重という部分はあって、問題があるのですが。

細川忠興などとはかなり仲が悪かったのです。彼らは軍人ですから。

黒田官兵衛やその子供長政とは間違いなく仲が悪いです。

 

 

まとめ

三成がしようとしたこと、望んだことは、秀吉が政権を取って、泰平の世が続くことでした。

しかしそれを成し遂げたのは、敵の家康でした。

しかし、そう大きくはない藩の三成が日本を動かすとは不思議な事実です。彼がもっと器用なら歴史が変わっていたでしょうね。

 

ということで、石田三成をカンタンに語るには、

・秀吉のめっちゃ重要な家臣

・関ケ原の戦いの西側の主導者

・けっこうマニアックな人気!

 

こんな感じでどうでしょう。(・∀・)

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