本能寺の変を5分でカンタンに!織田信長と明智光秀の関係は?

「本能寺の変」といえば、めっちゃ有名ですよね。あの織田信長が死んだ事件です。

この事件に関してはいろいろな逸話がありますが、一体どれが本当なのでしょうか。

未だ完全には解き明かされていませんが、本能寺の変をカンタンにわかり易く紹介していきますよ。

 

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本能寺の変ってどんなもの?

まず本能寺の変についてカンタンに説明します。

これは1592年、明智光秀が主君である織田信長を裏切り、京都の本能寺に泊まっていた信長を襲撃した事件ですね。

光秀が本能寺を襲撃し、完全に包囲しました。

この時、明智軍は約13,000人。織田軍は約30人。

この日、自分が死ぬことを悟った信長は、寺に火をつけ切腹。華やかに死んだというもの。

その後信長の死体は発見されず、現在まで発見されていないのです。日本史では最も謎な事件のひとつです。

 

わかりやすいのだと、こんな感じですね。(・∀・)

 

信長が包囲された事を聞いた嫡男・織田信忠は本能寺に駆けつけます。が、すでに寺が燃えていたのだそう。

信忠も明智軍と戦いますが、圧倒的人数に圧され最後は切腹します。

この本能寺の変で日本は「いくさの時代」が終わりに向かい始めたのです。そのため日本で最後の下克上と言われています。

 

その後、この事件を聞いた秀吉は激怒。その時ケンカ真っ只中だった毛利氏ととりあえず仲直りし、明智光秀を倒すために全軍で京へ向かいました。

この全軍を率いた大移動の事を「中国大返し(ちゅうごくおおがえし)」といい、学校のテストにも出てきたことでしょう。現在の岡山から京都、200kmほどを移動したそうですよ。

そして秀吉は、主君の仇・明智光秀を撃破したのです。

 

 

本能寺の変のいろいろな説

この本能寺の変。いろいろと謎が多いのですね。

光秀がこんな反乱を起こしたはっきりとした理由は分かっていない事もあり、現在でも色々な説が飛びかっているのです。

「日本史の謎」「永遠のミステリー」と呼ばれる本能寺の変の、いろいろな説を紹介していきますよ。

 

信長、生き延びた説

本能寺の変の後、信長の死体は発見されていないのですね。

光秀も全力で探したようですが、出てきていません。現代までずっと出てきていないのです。

これが日本史上、最大の謎のひとつで、「もしかしたら逃げ延びてひっそり暮らしていたんじゃ?」なんて一部で言われているのです。

が、信長の性格上、それはありえないでしょう。もし生きていたら間違いなく仕返しにいくでしょ。(・∀・)

 

 

明智軍の兵たち、敵が信長だということを知らなかった説

この時期に信長は家康を倒す計画を立てていたのです。天下統一が見えてきた信長にとって、家康が邪魔だったのです。

その計画を知っていた兵たちも「本能寺にいるのは家康だと思っていた」とのこと。

あんまり信用できない説ですが、どうなんでしょうね。(・∀・)

 

 

光秀、ふつうに天下取りたかった説。

光秀が反逆した理由がはっきりしていないのでしたね。

ひとつの通説として、「光秀がふつうに天下ほしかったんじゃね?」と言われています。

確かにこの事件の後、秀吉に討たれるまでの十数日、光秀は実質天下人となりました。

この権力をもった期間がとても短いことを「三日天下(みっかてんか)」と言い、現代でも使われていますね。

 

 

信長がイジメすぎたから説

光秀は信長にめっちゃ気に入られていたそうですが、その分イジりまくりだったとか。

まずあだ名が「ハゲ」。(当時みんなハゲじゃないですか?(・∀・))

「俺の酒が飲めないのか!」と刀を突きつけたり、理不尽に皆の前でボコボコ殴られたりしてたのだそう。

他にも、色々あって「こいつ、いつか殺そう」と思われていたんですね。

光秀はとても優秀で、鉄砲は百発百中、政治面でも任せる役割も大きいなど、信長のお気に入りだったそうですが、信長様はツンデレなんですね。

 

 

黒幕が徳川家康説

家康には信長を恨む理由があるとのこと。

家康の妻・築山殿(つきやまどの)を信長の指図で、家康が殺害します。

そして長男である信康の切腹も、家康が信長に命令されて実行したと言われているのです。

これが本当だとしたら、家康は絶対に信長の事が憎くて恨んでいた事でしょう。

 

そして、「天海の正体が明智光秀説」も関係しています。

天海といえば、僧であり家康の右腕。家康も天海の意見はめっちゃ参考にしていたそうです。

つまり「家康が光秀に信長襲撃命令をだし、その後光秀は天海として家康に仕えた」というもの。

まあ、これは完全にデタラメというか都市伝説でしょう。(・∀・)

 

 

んな感じでいろんな説が勝手に囁かれているのですね。

通説は、「ふつうに天下取りたかったから」か「信長が本気で嫌いだったから」です。でもいろいろな説があるのも面白いですよね。

戦国時代はほんとうにロマンがありまくりです!

 

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元々、織田信長と明智光秀の関係は?

もともと信長と光秀はどのような関係だったのかが気になります。カンタンに紹介してみましょう。

光秀からしたら、信長は主君です。光秀は信長に仕えていたのです。

光秀を見出した信長は、光秀を重臣にして政治面でも大きい仕事を任せたりします。それに光秀は戦でも強く、鉄砲は百発百中だったそう。

光秀は信長の、かなりのお気に入りだったのですね。

 

しかしツンデレ信長様。

徳川家康の接待役という大役を任されていた光秀ですが、信長の命令で秀吉の援護にされたり、皆の前で理不尽に殴られたり蹴られたり。

他にもキツイ仕打ちの連続で、光秀も信長の事を恨んでいたのでしょう。本能寺の変での反逆が不思議ではないほどに。

信長も本能寺の変で、大群の敵に囲まれた悟った時、「是非に及ばず」(確認する必要なし)と言ったのですよね。

これも、この大群は光秀の大群だと聞いて、「本当に光秀なのかどうか確認する必要はない」ということ。反逆される事に思い当たる事があったのでしょうか。

 

もしかしたら、信長は光秀の能力は認めつつも、光秀という人間をあまり好きではなかったのかもしれません。

元々から傾奇者で自由奔放な信長と、マジメな光秀では性格が合わなかったと言われています。

こちらの記事で信長、光秀をわかり易く紹介しています。

 

まとめ

本能寺の変について紹介しました。

いろいろな説があって面白いですが、やっぱり真実が知りたかったりもします。それがまたロマンというやつなのでしょうか。

織田信長と明智光秀の関係も、少しは見えてきたでしょうか。やっぱり元々気は合わなかったっぽいですね。

「日本史最大の謎」とも言われる本能寺の変ですが、やっぱりもうちょっと真実が知りたいと思ってしまいました。

 

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